グローバル化時代に教養が必要な理由

與那覇潤さんの『日本人はなぜ存在するか』を読了。今回は日本史の話というより「日本」「日本人」「日本史」などが自然に客観的に存在するものではないこと、また近代世界になぜそういうことが問題にされるようになったかの、社会学や哲学や民俗学やポピュラーカルチャー研究やメタヒストリーやポストモダン思想や、いろいろな学説・思想を解説しながらの説明。意識的に「この学問・思想はこういう切り口でものを語るのだ」という説明をまじえながら論を進めるところが、とても私好みである(教養がないのでよく馬脚を現すが、私の概論系講義もこれをよく試みる)。

国や国民や民族や国史というものを自然に客観的に(無前提に)存在するものを信じ込むのは正しくないし、かつてのようにそれらに関する「大きな物語り」を共有することはできないのが、なにも日本人だけがそういう状況にあるのでないことも--だからお互い好き勝手に自国本位の歴史を語ればいいんだなどという幼稚な考え方ではなく、むしろそれだから夢を抱いて「変えていける」のだと--最後にきちんと説明しているのは、うまい締めだろう。

序文の「教養とは「特定の文脈を超える力」のこと」で、だからグローバル化時代(「日本人」のように特定の文脈を共有する人だけで生きるのではなく、いろいろ違ったコンテクストをもつ人とつきあわねばならない時代)には教養が必須だ、という説明も説得的だ。CSCDやGLOCOLの教員たちも、こういう考えには賛同する人が多いだろう。

教養科目ないし入門講義のお手本だろう。毎度のことだがさすが駒場の出身と感心する。
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ダオ・チーラン

Author:ダオ・チーラン
ヒツジ年生まれで写真のニワトリに深い意味はない。横浜で生まれ育った関東人だが、大学入学後現在まで関西で暮らしている。
本業は歴史学者で、専門は中・近世のベトナム史、海域アジア史、歴史学の評論・解説など。
趣味はパ・リーグを中心としたスポーツ、鉄道ほか。
このブログの意見はすべて筆者個人のものであり、いかなる組織にも関係ありません。

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