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東洋的専制

特定秘密保護法案に関する新聞記事を見ていて、モンテスキュー以後の近代ヨーロッパ知識人が「自由のヨーロッパ」と対比して唱えたこの概念を思い出した。

日本では東洋的専制というと、権力者によってがちがちに縛られて可能な行動の幅がすごく狭い(たとえれば校則づくめの学校)イメージが一般的かと思われるが、ヨーロッパ知識人のそれはむしろ「権力者の恣意=なにをしてよくてなにをしてはいけないかが被治者はあらかじめ示されないため、被治者は常におびえて暮らさねばならない状況」ではなかったか?

なにが秘密であるかは国民の知る権利が及ばない、事後的にも永久的に隠したままでおける、どんな行動が指定された秘密を犯す行為であるかも明示されない、というのは、「恣意に基づく専制」を可能にするものとしか思われない。少なくとも権力側の乱用に対する第三者機関による監視の制度的保証は、近代西洋的な民主主義の観念からすれば不可欠だろう。
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ダオ・チーラン

Author:ダオ・チーラン
ヒツジ年生まれで写真のニワトリに深い意味はない。横浜で生まれ育った関東人だが、大学入学後現在まで関西で暮らしている。
本業は歴史学者で、専門は中・近世のベトナム史、海域アジア史、歴史学の評論・解説など。
趣味はパ・リーグを中心としたスポーツ、鉄道ほか。
このブログの意見はすべて筆者個人のものであり、いかなる組織にも関係ありません。

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