公平性の呪縛?

大学入試に関する毎日新聞の連載は5回で終わった。最終回は、「過去問」出題の動きと、「試験の公平性」の呪縛からの脱却を訴える教育界や産業界の動きを紹介している。

「過去問」の方は、同じ問題を出してはいけないという受験界の不文律に従うと、出題できる問題が枯渇するし、挙げ句の果ては「誰も知らない」珍問奇問の出題にもつながりやすいという問題だ。論述式など考え方を問う問題であれば、同じテーマでも色々な出題が可能だが、単純に語句や年代を問う問題だと、膨大な「暗記マター」がないと、類似問題の頻出は避けがたいのである。「いい問題」は堂々とあちこちで、何度も出していいはずだ。

官庁の採用試験でも外注が進んでいるというし、企業の採用試験が「公平」かどうかは、そもそもあまり議論にならない。それなのに(それだからせめて大学入試は?)主観性が入る論述や面接でなく、「客観的・公正な」マークシートなどのペーパー入試をするべきだという感覚が社会的には強いのだろう。おそらくそれは、論述や学校のカラーの出た入試などは「エリート教育」のための議論だ、という「大衆的」感覚とも結びついている。

しかし、マークシートが本当に客観的で公平だろうか? いくらでも疑うことができる。それを疑わないのは、日本人がアングロサクソン系などと違って、「世の中には純粋に客観的で公平な単一の基準が存在しうる」「それにもとづいて人間を序列化できる」という、論理的には証明できない「信仰」もしくは「社会的約束事」を共有しているからにすぎない。「平行線は交わらない」という約束事の外に出れば、違った世界もありうる。

こうしたことを、ごく少数のインテリの屁理屈にとどめておいてはいけない。話を広げればそれは、教育や社会の場での具体的・個別的なイシューについて、政治的に「完全中立の立場」がありうるという「巨大な誤解」にもつながっているだろう。「完全中立」が結果として、特定の主張や政策を承認・応援することにほかならないケースがいかに多いかは、国民レベルの常識にしなければいけない。

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ダオ・チーラン

Author:ダオ・チーラン
ヒツジ年生まれで写真のニワトリに深い意味はない。横浜で生まれ育った関東人だが、大学入学後現在まで関西で暮らしている。
本業は歴史学者で、専門は中・近世のベトナム史、海域アジア史、歴史学の評論・解説など。
趣味はパ・リーグを中心としたスポーツ、鉄道ほか。
このブログの意見はすべて筆者個人のものであり、いかなる組織にも関係ありません。

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