アンコールを攻めたベトナム人?

某紙上でカンボジアのアンコール遺跡探訪記を読む。

有名なバイヨン寺院の塔や浮き彫りのことが書いてある。


アンコール帝国(アンコール王朝と書くことがよくあるが、「岩波講座東南アジア史第2巻」その他に書かれている通り、一つの家系が世襲したものではないので、「王朝」には抵抗がある)の最後の繁栄期を作ったジャヤヴァルマン7世が築いた王都(通称アンコール・トム)の中心にある寺院である。アンコール帝国ではヒンドゥー教を信仰する王が多かったが、バイヨンは大乗仏教寺院である。ただ、どちらも多神教であるヒンドゥーと大乗仏教は根本的に対立するものではなく、東南アジアでは一般に「両方混ざった多神教」がさまざまな土着信仰とともに崇拝されていた。ジャヤヴァルマン7世時代にもヒンドゥー教寺院は造られている。「トップの神様がシヴァ、ヴィシュヌ、ブッダなど何度も入れ替わった」と理解するのがいいだろう(カンボジアの場合、14世紀には帝国の衰退の中で仏教がスケープゴートにされたらしく、大規模な廃仏がおこる)。

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さて、冒頭の記事で「またか」と苦笑したのが、有名なこの浮き彫りの説明。
「カンボジア人や中国人がベトナム人と戦っている場面」だそうだ。2000年に私が訪問してこの写真を撮った際にも、隣の日本人観光客を案内するガイドさんが、「これはベトナム人が攻めてきたところ」と説明していた。
はて、ベトナム(12世紀なら大越の李朝?)がアンコールを攻めることなんてできたかな?

たしかにこの浮き彫りは、1177年にアンコールを襲って破壊した外敵を4年後に撃退して即位し、カンボジアの栄光を回復したジャヤヴァルマン7世を称えたものだが、その外敵というのは現在の中部ベトナムにあったチャンパーだとされている。そのあたりの事情は、拙著『チャンパ』(樋口英夫、重枝豊と共著、めこん、1999年)にも書いた。チャンパーは大きな農業基盤をもたないものの、カンボジアや大越としばしばインドシナ半島東部の覇権を争う強大な勢力をもっていた(14世紀以降に大越に圧迫され、1830年代に最後の王権も解体する)。

ではカンボジアのガイドさんはなぜ、チャンパー軍の浮き彫りを「ベトナム人」と説明するのだろう。
個人的な推測だが、容易に思いつく原因は、近世以降のベトナムの侵略に起因するベトナム人嫌いだろう。チャンパーの主要民族だったチャム人は現在のカンボジアにたくさん住んでいるから、それをおもんぱかって「チャム人の攻撃」とは言わない、という事情もありそうに思われる。逆に「中国人との同盟」という東南アジア諸国で言えないことも多い事柄が平気で言えるのは、「華僑はベトナム人ほど憎らしくはない」からではないか。

余談だが、ドイモイ後のベトナムでは、ベトナム人(キン族)の歴史だけでなく、現在のベトナム領全体の歴史を「国民の歴史」として囲い込もうとする動きが見られ、かつて無視されていたチャンパーの歴史(や先行する金属器文化であるサーフィン文化)もその一部に位置づけられている。その立場から見れば、意外なことに、アンコールに攻め寄せたチャンパー軍を「ベトナム人」(キン族の意味でなく広義のベトナム国民の意味)と呼ぶのは正しいのかもしれない。ただ、チャンパー史が近世以降のベトナム史の重要な源流になった(中部ベトナムのキン族とベトナム文化には、チャンパーの人と文化の系譜を引くものが多い)ことは、チャンパー史が丸ごとベトナム史の中にあったことを意味しない。『チャンパ』や岩波の『海のアジア』で書いたように、チャンパー史という歴史の広がりは、今のカンボジアやタイ、島嶼部東南アジア各地にまたがっていたのだ。

蛇足で高校の先生にいつも話していることを書けば、こういう領域のはっきりしないネットワーク型の国家が東南アジアには多いので、「各国の領土を明瞭に塗り分けた地図」は作れないし、そんなものの暗記を生徒に強制してはいけない。






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ダオ・チーラン

Author:ダオ・チーラン
ヒツジ年生まれで写真のニワトリに深い意味はない。横浜で生まれ育った関東人だが、大学入学後現在まで関西で暮らしている。
本業は歴史学者で、専門は中・近世のベトナム史、海域アジア史、歴史学の評論・解説など。
趣味はパ・リーグを中心としたスポーツ、鉄道ほか。
このブログの意見はすべて筆者個人のものであり、いかなる組織にも関係ありません。

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