朱子学化する日本近代

1年前に出ていた本を、ようやく買った。
img886.jpg

歴研でやった東アジアの近世化の論争、與那覇さんの「中国化」の議論などに関連する大事な書物である。
著者は大学(学部)で独文を出て、それから韓国の大学院で東洋哲学を研究した人だと初めて知った。

人間を「変革主体」(なつかしい言葉だ)するが、しかし外在的・超越的な原理や理論にしたがって行動させ、しかもその「主体化」の度合いによって構成員を「序列化」するのが、朱子学だという。
明治以降の日本は(西洋の原理を受け入れる)主体化とそれによる構成員の序列化に疾駆し--江戸時代は朱子学化していないというのは、宮嶋博史さんと一致する考え方だーー、しかも1970年代以降の日本は「朱子学的主体の変革性を忘却したまま」ひたすら朱子学的思惟の持つ反動的側面、すなわち外在的な「理」によって構成員を「序列化」することのみに没頭してきた、韓国社会が同じ時期、後者の「序列化」に苦しみながらも、前者の革命性・革新性も充分に行使して民主化や情報化を劇的に達成したのとは大いに異なる」。
「ただし、東アジアの「朱子学的主体」は、言葉の真の意味で創造的ではない。それは、西洋の民主主義や資本主義や人権やグローバリズムや多文化主義などという概念を最高不可侵の「理」と信奉する、奴隷的な「主体」なのである。その意味で、朱子学的変革が進行すればするほど社会に奴隷的「主体化」と「序列化」が進行するという悪循環からは、容易に抜け出すことができないのだ」

というあとがきにはうならされた。カバーには(第1章を引いて)この「主体」は、同時に「臣民」でもある
subjectのようなものだとあるのを見てさらにナットク。「社会科」が「公民科」に改称された点も、日本国家がこういうsubjectを育成しようとしていると考えると、単に「軍国主義者が従順な被支配者を養成しようとしている」と見るよりよく理解できるだろう。
関連記事
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

ダオ・チーラン

Author:ダオ・チーラン
ヒツジ年生まれで写真のニワトリに深い意味はない。横浜で生まれ育った関東人だが、大学入学後現在まで関西で暮らしている。
本業は歴史学者で、専門は中・近世のベトナム史、海域アジア史、歴史学の評論・解説など。
趣味はパ・リーグを中心としたスポーツ、鉄道ほか。
このブログの意見はすべて筆者個人のものであり、いかなる組織にも関係ありません。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
アクセス・カウンター
あなたは
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR