大ベトナム展(8)~白藤江の杭~
大越(陳朝)が元寇を撃退した1288年(旧暦3月8日のこととされる)の白藤江(バックダン河)の戦いで、大越が川底に植えたとされる木の杭が、今回の展示にも出品されている。
バックダン河は、ハノイから国道5号線経由で世界自然遺産の観光地として有名なハロン湾に行こうとすると、ハイフォンの先でフェリーで渡ることになる大きな河で、下流部は潮の干満の大きな影響を受ける。「ホン河(紅河)デルタ」の最東端にあたり、すぐ東は中国国境まで続く山岳地帯である。フェリーで渡ると、大きな泥の洲とマングローブが見られる。
1257年と84~85年に続く3回目のモンゴルの出兵が1287年暮れからおこなわれ、モンゴル軍はまたも首都タンロン(ハノイ)を占領したのだが、食糧補給を絶たれたことなどから撤退を決め、水陸両軍がバックダン河に沿って下ってきたところを、総指揮官チャン・フンダオ(興道大王陳国峻)率いる大越軍が迎え撃った。あらかじめ河底に硬い鉄木(リムの木)でできた杭をたくさん植えておき、満潮時に戦いをいどんで、わざと逃げるふりをしてモンゴル艦隊を杭を植えたとこをに誘い込み、干潮になって艦隊が杭にひっかかり動けなくなったところを、周辺の水路などに隠れていた部隊がいっせいに襲いかかってモンゴル軍を潰滅させた、というストーリーはご存じのかたが多いだろう。
チャン・フンダオ像(ハノイ・ゴクソン神社)
バックダン河の杭(ハノイ・歴史博物館)

戦闘に関する詳しい考証については、山川詳説世界史の著者としてもしられた故山本達郎教授の『安南史研究I』(山川出版社、1950年)と、ベトナムでハノイ大学史学科の「四柱大臣」の一人としてと独立後のベトナム史学会を背負い続けたハー・ヴァン・タン教授が後輩のファム・ティ・タム教授と共著した『13世紀のモンゴル=元朝に対する抗戦』(Hà Văn Tấn - Phạm Thị Tâm. 1975. Cuộc kháng chiến chống xâm lược Nguyên Mông thế kỷ 13 (in lần thứ 4). Hà Nội: Nxb KHXH)の2つの世界的な名著がある。またクビライが日本遠征用の艦隊を大越に投入したために第3回日本遠征が実現しなかったことなど、アジア各地の抵抗の連鎖については片倉穣(かたくら・みのる)「蒙古の膨張とアジアの抵抗」(荒野・石井・村井編『アジアのなかの日本史』東大出版会、1992年)という専論がある。大規模な抵抗戦争を可能にした陳朝の政治・軍事体制や王権の構造、王家の家族・親族・婚姻のしくみとそのなかでのチャン・フンダオ一門の特殊な位置については、拙著『中世大越国家の成立と変容』第7/8章でも検討しており、さわりは岩波講座世界歴史第2巻に書いた。
なお『大越史記全書』には、938年に呉権(ゴー・クエン)が南漢軍の侵入を迎え撃った際と、980年に黎桓(レー・ホアン)が宋軍を迎え撃った際にも、白藤江に杭を植えたことが記録されている。今回の図録にもあるように、これまでに発見された木杭の放射性同位元素による年代測定値は13世紀を指し、10世紀に戦いの痕跡はいまのところ見つかっていないようだ。
『大越史記全書』には他にも同じ出来事が別の年代に記録されている例があり(編者が意図的にある出来事を元にして別の出来事を創作したのか、それとも最初に年代の不確かな伝承などがあって、それを複数の記録者がそれぞれ別の時期の出来事として記録し、それが『大越史記全書』に流れ込んでしまったのかはよくわからない)、10世紀の大きな戦いの記録--その戦い自体は事実だが--に13世紀の大勝利のときの戦法が付加されてしまったのかもしれない。
ところで、別の記事で力尽きて昨日のうちに書けなかったが、4月30日はベトナム戦争の南部完全解放の日。 今日もメーデーで祝日なので、日本のゴールデンウイークほどではないにせよ、ベトナムでも連休があるのだ。
ハノイでもバックダン河の戦いはもちろん「国を建て国を守った歴史」としてのベトナム史のハイライトとされてきたし(私が留学中の1988年には700周年記念シンポがあった)、サイゴンの中心、サイゴン河の岸辺には「北方からの侵入者を撃退したチャン・フンダオの像」が75年以前から立っている。75年4月30日は、そこにこめられたサイゴン政権の願いが潰えた日である。あれから38年。まるまる1世代の時間が経過した。「侵略への抵抗の歴史」にかえて国際交流の歴史、世界のなかのベトナムの歴史を課題としてきたドイモイ後のベトナム史学界(しかし南シナ海の領土・領海紛争でベトナムの立場を正当化する役割はすでに負わされている)が、ふたたび「北方からの侵略への抵抗の歴史」を看板にしなければならないような事態がおとずれないことを祈りたい。
バックダン河は、ハノイから国道5号線経由で世界自然遺産の観光地として有名なハロン湾に行こうとすると、ハイフォンの先でフェリーで渡ることになる大きな河で、下流部は潮の干満の大きな影響を受ける。「ホン河(紅河)デルタ」の最東端にあたり、すぐ東は中国国境まで続く山岳地帯である。フェリーで渡ると、大きな泥の洲とマングローブが見られる。
1257年と84~85年に続く3回目のモンゴルの出兵が1287年暮れからおこなわれ、モンゴル軍はまたも首都タンロン(ハノイ)を占領したのだが、食糧補給を絶たれたことなどから撤退を決め、水陸両軍がバックダン河に沿って下ってきたところを、総指揮官チャン・フンダオ(興道大王陳国峻)率いる大越軍が迎え撃った。あらかじめ河底に硬い鉄木(リムの木)でできた杭をたくさん植えておき、満潮時に戦いをいどんで、わざと逃げるふりをしてモンゴル艦隊を杭を植えたとこをに誘い込み、干潮になって艦隊が杭にひっかかり動けなくなったところを、周辺の水路などに隠れていた部隊がいっせいに襲いかかってモンゴル軍を潰滅させた、というストーリーはご存じのかたが多いだろう。
チャン・フンダオ像(ハノイ・ゴクソン神社)

バックダン河の杭(ハノイ・歴史博物館)

戦闘に関する詳しい考証については、山川詳説世界史の著者としてもしられた故山本達郎教授の『安南史研究I』(山川出版社、1950年)と、ベトナムでハノイ大学史学科の「四柱大臣」の一人としてと独立後のベトナム史学会を背負い続けたハー・ヴァン・タン教授が後輩のファム・ティ・タム教授と共著した『13世紀のモンゴル=元朝に対する抗戦』(Hà Văn Tấn - Phạm Thị Tâm. 1975. Cuộc kháng chiến chống xâm lược Nguyên Mông thế kỷ 13 (in lần thứ 4). Hà Nội: Nxb KHXH)の2つの世界的な名著がある。またクビライが日本遠征用の艦隊を大越に投入したために第3回日本遠征が実現しなかったことなど、アジア各地の抵抗の連鎖については片倉穣(かたくら・みのる)「蒙古の膨張とアジアの抵抗」(荒野・石井・村井編『アジアのなかの日本史』東大出版会、1992年)という専論がある。大規模な抵抗戦争を可能にした陳朝の政治・軍事体制や王権の構造、王家の家族・親族・婚姻のしくみとそのなかでのチャン・フンダオ一門の特殊な位置については、拙著『中世大越国家の成立と変容』第7/8章でも検討しており、さわりは岩波講座世界歴史第2巻に書いた。
なお『大越史記全書』には、938年に呉権(ゴー・クエン)が南漢軍の侵入を迎え撃った際と、980年に黎桓(レー・ホアン)が宋軍を迎え撃った際にも、白藤江に杭を植えたことが記録されている。今回の図録にもあるように、これまでに発見された木杭の放射性同位元素による年代測定値は13世紀を指し、10世紀に戦いの痕跡はいまのところ見つかっていないようだ。
『大越史記全書』には他にも同じ出来事が別の年代に記録されている例があり(編者が意図的にある出来事を元にして別の出来事を創作したのか、それとも最初に年代の不確かな伝承などがあって、それを複数の記録者がそれぞれ別の時期の出来事として記録し、それが『大越史記全書』に流れ込んでしまったのかはよくわからない)、10世紀の大きな戦いの記録--その戦い自体は事実だが--に13世紀の大勝利のときの戦法が付加されてしまったのかもしれない。
ところで、別の記事で力尽きて昨日のうちに書けなかったが、4月30日はベトナム戦争の南部完全解放の日。 今日もメーデーで祝日なので、日本のゴールデンウイークほどではないにせよ、ベトナムでも連休があるのだ。
ハノイでもバックダン河の戦いはもちろん「国を建て国を守った歴史」としてのベトナム史のハイライトとされてきたし(私が留学中の1988年には700周年記念シンポがあった)、サイゴンの中心、サイゴン河の岸辺には「北方からの侵入者を撃退したチャン・フンダオの像」が75年以前から立っている。75年4月30日は、そこにこめられたサイゴン政権の願いが潰えた日である。あれから38年。まるまる1世代の時間が経過した。「侵略への抵抗の歴史」にかえて国際交流の歴史、世界のなかのベトナムの歴史を課題としてきたドイモイ後のベトナム史学界(しかし南シナ海の領土・領海紛争でベトナムの立場を正当化する役割はすでに負わされている)が、ふたたび「北方からの侵略への抵抗の歴史」を看板にしなければならないような事態がおとずれないことを祈りたい。
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