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北方史と東南アジア史

金曜日から仕事で札幌へ。
金曜午後、まず札幌北高校で、大阪大学歴史教育研究会にずっとご協力いただいている吉嶺茂樹先生の選択世界史の授業(3年生)に出演。日本史と東南アジア史をつなぐ朱印船貿易の入試問題解説と、日本列島北方史と東南アジア(島嶼部)の歴史を比べる話を取り上げて、北海道で東南アジア史を学ぶ糸口や面白さを話す。北大日本史のH先生が見に来たので緊張。吉嶺先生は前の回と次回に北海道と世界や東南アジアとのかかわりについて話してくださるので、私のヘタクソな出前講義もある程度生徒に理解できるだろう。「受験指導」の部分を効率よく進めることで、これだけの時間の余裕を生み出すY先生の腕前に脱帽。あとで見学した図書室も充実していた(海域アジア史研究入門があったので感激)。

夕方は、吉嶺先生が北大教育学部で受け持たれている地歴科教育法の授業に参加。途中で阪大の取り組みの意図を紹介してくれと頼まれていたので、3月にCSCDのワークショップで見せたパワポ(歴史教育研究会事務局のGさん、Uさんと協力して作ったもの)を見せながら説明。こちらは、日曜日のパネルのコメンテーターをお願いした北大東洋史の吉開さんが見に来られる。ここでも吉嶺先生の精力的な指導に感心。

土曜日の朝、ちょっと時間があったのでJRで札幌-白石間を往復。北海道の現存する国鉄(JR)路線はひととおり乗っているのだが、分岐駅で下車していないところがあり、白石はそのひとつ。

千歳線と函館本線の分岐駅白石


土曜の昼前から、北大で開催された東南アジア学会大会に参加。阪大勢は私のほかにポスドク、院生合計4名。OBの蓮田氏(現新潟大)を含めれば5名。
初日は自由研究発表。清朝の軍機処の文書を使い、ベトナムの阮福映が清との交渉のなかで「南越」の国号をいつからどう使おうとしたかを論じた吉開将人さんの報告が圧巻。従来は南越は西山朝を滅ぼした後に使おうとした国号で、古代の広東にあった南越王国(13世紀の「大越史記」以来、ベトナムで正統王朝とされていた)を意識したものだったため、それを認めたら広東・広西までの支配権を認めることになるから清朝は拒否し、代わりに「越南(ベトナム)」の国号を使わせることで話がついた、と理解されていた。が、吉開さんが北京の故宮で発見した文書によれば、阮福映は西山朝を滅ぼす前から広東の地方官との交渉に南越の国号を用いており、最初は清朝側もこれを見過ごしていたが、のちに急に「南越はまずい」と問題にしたのだという。同時に阮福映は、自分が代々越裳・真臘(中南部ベトナム)を支配してきた政権の出身であって、安南(北部ベトナムの黎朝)とは別なのだと主張している。では、この南越は本当に古代の南越国(の領土や正統性の継承者)を意味するものなのか。むしろ広南阮氏以来の領域を指す国号(のひとつ?)ではないのか。そういう目で、広南阮氏~阮朝の国号(前者の「大越」との関係は特に問題)に関する記録を見直したり、地方文書を新たに探すことが必要である。

清水政明さんの、「父母恩重経」のチューノムを使った15世紀ベトナム語の音韻に関する報告は、相変わらず私が言語学の素養に欠けるためにわからないところがあるのだが、長年検討してこられたこの資料による15世紀の音韻の復元を、もっとも総括的に提示されたものと理解した。「双音節形態素」がこの時代より後に消滅するという考えに立てば、「大越史略」「大越史記全書」の陳朝以前の部分などに出現する、2文字で表記され従来は比定不能だった固有名詞(例:阿○、可○、司○などの地名)のうちかなりのものが、近世以降の1音節のそれに比定できる可能性がでてきたわけで、歴史学や歴史地理学にとっても重要な成果である。

夕方、東南アジア史学会賞を受賞した野平さんの、ベトナム戦争中の南部に現れた風変わりな文人ファム・コン・ティエンに関する記念講演。これも面白かった。チン・コン・ソンとも親しかったとのこと。

日曜の朝、「高大連携東南アジア教育科研」の活動の一環というかたちで私が企画した、北海道でどう東南アジアを教え、学ぶかのパネル。これまでこの科研にもとづくパネルディスカッションを2回開き、それぞれ高校と大学の東南アジア教育について議論してきたが、今回は地域や学習者の所属・関心に応じた教育をどのように行うかという観点から、日本列島の中でもっとも東南アジアには縁が遠いように見える(?)北海道で、どう関心を持たせどんな内容を教えるかを議論したいと考えた。
金曜日に吉嶺先生の授業に出演したのは、このパネルで世界史の授業についての報告をお願いしたところ、それでは自分の授業に出てくれ、それをもとに日曜日に共同で報告しよう、と逆提案されたものである。

パネルの司会は科研の代表の青山亨さん(東京外大)。同じ時間帯に2つのパネルが並行して行われるため、参加者はせいぜい30~40人という予想だったが、始まってから聴衆がどんどん増え、50部用意した資料があっさりなくなったのはうれしい誤算だった。

第一報告は吉嶺先生の当別高校時代の同僚で、いっしょに国際協力クラブを立ち上げた田辺先生(地理)と東先生(家庭科)が、吉嶺先生のインタビューに答える形で、当別高校で始めたカンボジアに井戸を掘る(ための資金を集めて送る)取り組み、その後の転任先での新しい取り組みなどの紹介を通じて、生徒たちに東南アジアや国際理解への関心をいかに喚起してきたかを話された。第二報告で吉嶺先生と私が、金曜日の授業の中身の紹介と、「世界史の鬼門」である東南アジア史の教え方、現在議論されている高校「歴史基礎」新設への対応を含め、歴史教育改善のために(特に大学側で)なにが必要かなどの説明をおこなった。コメントは東南ア研の小林知さん(カンボジア地域研究)と吉開将人さん(東洋史学)。時間は短かったが、北海道の高校生と井戸を送られたカンボジアの子どもたちの双方が誇りをもてるようにする方法、日本列島北方史を「比較」によって「つなぐ」可能性がいろいろな地域に存在することなど、有益なコメントや問題提起が行われた。報告者・コメンテーターその他の皆さん、有り難うございました。

休憩時間や懇親会で、他の国際会議や科研について打ち合わせができたことなども含め、久々に収穫の大きい大会だったように思う。
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プロフィール

ダオ・チーラン

Author:ダオ・チーラン
ヒツジ年生まれで写真のニワトリに深い意味はない。横浜で生まれ育った関東人だが、大学入学後現在まで関西で暮らしている。
本業は歴史学者で、専門は中・近世のベトナム史、海域アジア史、歴史学の評論・解説など。
趣味はパ・リーグを中心としたスポーツ、鉄道ほか。
このブログの意見はすべて筆者個人のものであり、いかなる組織にも関係ありません。

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