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大ベトナム展(5)~フエの広南阮氏?~

大ベトナム展には、大航海時代のヨーロッパ人が作ったアジア地図に日本でカナや漢字を書き込んで保存したものが数点出品されている(図録No.67~74)。そこにはベトナムの地名がいろいろ書き込まれており、図録の解説文にも書き起こしてある(カナは崩し字なので、われわれ素人には読めないものも多い)。

そこで注意すべきことがらの一つに、朱印船の渡航先のトップである広南阮氏の本拠「順化」がNo.74の1点にしか書かれていないことである(岩生成一『朱印船貿易史の研究』によれば、朱印状でも渡航先を順化<「ソンハ」「スノハイ」などと読んだらしい>にしたものは2通しか残っていない)。

いうまでもなくその直接の理由は、広南阮氏と貿易しようとする外国船の多くが、順化(ベトナムの行政単位では「承宣」または「道」)と呼ばれた地方つまり現在のビンチティエン地域でなく、港市ホイアンのある広南地方(現在のダナン市・クアンナム省。先日書いた「迦知安」も同じ)に渡航したことである。所期の広南阮氏政権は、皇子を「広南営」に置いて、貿易の監督をさせた。「広南阮氏」という研究者の呼称自体が、当時の外国人が阮氏政権をその貿易中心にちなんで「広南(西洋語ではクイナムなどの発音)」と呼びならわしたことにもとづく(他に西洋人はコーチシナ、日本人は交趾・河内などと表記)。

しかしもう1点、注意すべきことがらがある。「フエに都を置いた広南阮氏」という表現が概説書などによく見られるが、実際に広南阮氏政権(1558~1777年)がフエ(富春営)に恒久的に中心を置いたのは1691年以降のことである。それ以前の阮氏は、所期には北部の黎朝=鄭氏政権とのにらみ合いの最前線(北緯17度線のすぐ北!)に当たるクアンチ省の愛子営、茶鉢営、葛営、17世紀なかば以降はフエ近郊の福安営、金竜営、博望営などを点々としていた。「営」は軍事拠点であり、大航海時代の広南阮氏政権は安定した政権というより「軍団」にすぎなかったのだ。

今回展示された地図の多くに、「ぎあん」(北部に渡航する朱印船やオランダ船の主要着岸地だったゲアン地方)の南に「ぼせん」の地名が書かれており、その南に「かうち(交趾=広南のこと)」がくる。No.74のホセンが布政の漢字を併記するとおり、「ほせん」は現在のクアンビンにあたる布政州を指し、1630年には広南阮氏の2代目阮福源がここを鄭氏から奪って前線指揮拠点「布政営」を置き、さらに北方、現在のハーティン省・ゲアン省を攻めようとしている。布政州を流れ阮氏と鄭氏の勢力の境界になっていた時期が長いザン川(sông Gianh)の河口は、チャンパー時代からラオス方面に抜けるルートの出口のひとつになっていたはずなので、鄭氏と阮氏の抗争の焦点ないし阮氏の拠点というよりも、南シナ海の貿易港としての一つとして、大航海時代の地図に載せる必要があったのかもしれない。

ちなみに今回の展示には、阮朝(1802~1945)の冠とか金冊、皇族の衣服などが出品されており、これも一見の価値がある。以前は「フランスの侵略を招いた反動王朝」などと低く見られがちだったが、最近は阮朝が初めて南北を統一し一元的な支配を試みた点を、現代国家ベトナムの前提として重視する見方が強まっている。
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とても魅力的な記事でした。
また遊びに来ます!!
プロフィール

ダオ・チーラン

Author:ダオ・チーラン
ヒツジ年生まれで写真のニワトリに深い意味はない。横浜で生まれ育った関東人だが、大学入学後現在まで関西で暮らしている。
本業は歴史学者で、専門は中・近世のベトナム史、海域アジア史、歴史学の評論・解説など。
趣味はパ・リーグを中心としたスポーツ、鉄道ほか。
このブログの意見はすべて筆者個人のものであり、いかなる組織にも関係ありません。

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