冨田健次先生の退職祝い

旧大阪外大ベトナム語科が1977年に発足した直後から教えてこられた冨田健次先生の定年退職記念の最終講義+パーティが、外大の元の所在地である上本町のホテルで昨日おこなわれた。ベトナム語科発足35周年記念、それに冨田先生が設立された「ベトナミストクラブ」20周年のお祝いも兼ねて、200人以上が参加した。清水政明先生、桜井理恵さんほかの企画・運営で、赤木攻先生(元学長、タイ語)のサプライズ登場などとても楽しい会になり、2次会(たぶんその後も)まで大いに盛り上がった。1979年からもぐり学生として授業を受けさせていただき、88-91年には教員として勤めた私も、なつかしい面々と顔を合わせることができ、少し若返った気がした。

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席上で配られた冨田先生の新刊。巻末の若き日の想い出など、読みどころ満載。

1977年に発足したベトナム語科(冨田先生は1964年に発足した東京外大ベトナム語科の一期生)は、当初は教科書も辞書もなく、またベトナムへの留学どころか旅行もきわめて困難だった。そういう絶望的な状況下で一から専攻体制を作り、しかも小規模大学である外大の中でもひときわ家庭的なまとまりを作った冨田先生の奮闘・功績には、本当に頭が下がる。偏差値の高い人気専攻ではなかったそういう学科の初期の学生が(多くはベトナム以外の分野でだが)各界で活躍しているのも、冨田先生の教育の力が大きかったにちがいない。もぐり学生時代、教員時代を通して、私も総合大学とは違った大学のありかたや学生気質を通して、たくさんの貴重な経験をすることができた。

冨田先生の最終講義の中心は、音と意味の関係についてであった。日本人は漢字を意味だけでとらえ、中国人とも筆談ができるとしているが、中国でも最初にあったのはあくまで音であり、文字はそれに当てて作られたのだということを、「倒」「招」「抄」「炒」などに含まれるao, ieuという音(韻)――手のひらを上に向け手前や上に向けて動かす動作を表す――を例にとって紹介され、しかもベトナム語で中国語からの借用でない語彙にも、同様の意味とaoの韻をもち単語がたくさんあることを指摘された。この考えのもとは、中国語についての藤堂明保さんの研究だと教わったことがあるが、中国語とベトナム語で同じ韻が同じ意味をともなっているとすれば、いよいよ興味深い。

私が何度も書いたり話してきた「漢字は表意文字だ、という考えは一面的だ」という考えは、外大時代に教わったこの種の話しがひとつの土台になっている。もうひとつの土台は、儒教では詩経が経典の一つであり、科挙知識人は漢詩が作れなければつとまらないという漢文東洋史の知識である。ちなみに唐以後の漢詩の音韻について、行末の韻をそろえることだけ教えるような日本の漢文教育は不十分で、七言の句であれば「平平仄仄平仄仄」といった具合に、すべての字について平仄(声調の種類)についての規則を守らねばならない。そこで漢詩作者の腕が問われるのであって、訓読みしてしまった漢詩というのは、漢字文化圏の通常の考えからすれば意味がない。

最近、日本以外の東北アジアでも漢字の訓読み、漢文の訓読に類する現象が見られたことを金文京さんなどが指摘しているが(ベトナムのチューノムにも「訓読みした漢字」が含まれる)、そういうベクトルとは逆の、音に強くこだわる言語文化がベトナムにはあり、皇帝の本名(諱)の漢字を書くことを禁止するだけでなくその音も変えさせる(「宗」「時」などの発音がそれで変えられた)など、漢字文化も音を重視する。近世の知識人も儒学より漢詩を大事にしているように見える。木版印刷の普及度が低く書物が少なかったせいだという見解もあるが、写本を含む近世の書物の生産量から見ていささか疑問ではある。むしろ、母語の特質などの作用により、漢字文化の受容の形態が分かれる、日本は意味に特化した一方の極端、ベトナムは音に特化した他方の極端と言ってよいように思われる。

戻って、冨田先生は阪大の名誉教授の称号を辞退されたそうだ。米軍の軍港だった佐世保でベトナム研究を志した冨田先生らしい反権威、それに「大阪外大に殉じる」心意気、両方を貫かれたのだろう。いずれにせよ、長い間有り難うございました。
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ダオ・チーラン

Author:ダオ・チーラン
ヒツジ年生まれで写真のニワトリに深い意味はない。横浜で生まれ育った関東人だが、大学入学後現在まで関西で暮らしている。
本業は歴史学者で、専門は中・近世のベトナム史、海域アジア史、歴史学の評論・解説など。
趣味はパ・リーグを中心としたスポーツ、鉄道ほか。
このブログの意見はすべて筆者個人のものであり、いかなる組織にも関係ありません。

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