世界史雑記帳(13)~銅銭の不思議4~

書き忘れたのだが、銅銭は原則として1枚1文である(例外的に1枚10文の銭が作られた時代があるが)。つまり銅銭の基本的性格は、純度や重さを量ったりすることなく個数だけを数えれば使用できる「計数貨幣」である。

中国史上でいちばんたくさん銅銭を鋳造したのは、北宋である。鎖国以前の日本を含め、東アジア・東南アジアの広い範囲で、近世に至るまで宋銭(と、宋銭が権威があるためにそれを模鋳した私鋳銭)が使われ続けた。明や清も銅銭を鋳造したが、量的には北宋に及ばない。

ところで宋代には経済や財政が拡大していたために、使われる銅銭の量も巨大になっていた(銅資源が無尽蔵でないこともあり、鉄銭を用いる四川のような地域も出現した)。しかし銅銭は重く持ち運びに不便である(海外にたくさん輸出されたのは、重いからこそジャンク船の船底を安定させるバラストとして利用されたという面もある)。そこで、塩専売にともなって発達した塩引とか、交子・会子のような手形や紙幣が使われるだけでなく(銀はまだ貨幣の機能はもたない)、銅銭そのものについて、70枚をひもで束ねたものを100文(100枚)と見なす、700枚の束を1貫(1000枚)と見なすなどの「短陌(たんぱく)」と呼ばれる使用法が一般化し、清代ないし民国初期まで存続する。それでも、農民が農産物を売って受け取ったような銅銭は、なかなか全部は市場や国家に戻ってこず、農村に滞留する。したがって、市場経済や財政の回転を維持しようとすると、市場や国家の側に、大きな銅銭のストックないし新規供給が不可欠だった。この構造も、清代・民国初期まで変わらない。

ユーラシア西方では、支配者が変わると貨幣が改鋳したり刻印を打ち直す習慣が見られたが、中国の場合、非正統王朝とされない限り、前の王朝の銅銭も元のままで流通し続けた(上の理由で、前の王朝のストックも大事だった)。また巨大で「ユルイ」専制国家中国では、建前上では造幣権は国家にのみ属したが(国家の発行した銅銭を「制銭」と呼ぶ)、実際はしばしば私鋳銭(要するにニセのお金)が流通し、銅銭需要を支えた。国家がこれをすべてを取り締まることは困難だった。貨幣の額面が鋳造費用を上回る場合は利益が出るから、一般に質の悪い銅銭を私鋳するのだが、質の悪い銅銭が増えると物価騰貴などの弊害が出るから、政府は財政事情が許す限り、なるべく質の良い制銭を供給しようとする。ところが逆に、鋳造費用を上回る額面の銅銭を供給すると、民間ではこれを鋳つぶして他の銅器に変えてしまうので、品位と額面のバランスは難しかった。

制銭にも品位がいろいろあるうえ、古い銅銭や質の悪い銅銭は、すり減ったり欠けたりする。それらがすべて市場で使われるので、同じ1文の額面をもつ各種の銭の間で実際の価値の差が出てくる(例:質の悪い銭Aは2枚で銭B1枚分として受領される)とか、特定の種類の銅銭の受領が拒否される(撰銭=えりぜに)ケースがしばしば出現する。同じある地域でも、日常の使用(通用銭)には質の低い銭を使い、価値の表示や富の蓄蔵(基準銭)には別の質の良い銭や銀を使うといった複線的な仕組みがよく見られた。こうした多元的な状況に対して、国家は撰銭を禁止する一方で、自ら各種の銭の間のレートを規定することもあった。
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ダオ・チーラン

Author:ダオ・チーラン
ヒツジ年生まれで写真のニワトリに深い意味はない。横浜で生まれ育った関東人だが、大学入学後現在まで関西で暮らしている。
本業は歴史学者で、専門は中・近世のベトナム史、海域アジア史、歴史学の評論・解説など。
趣味はパ・リーグを中心としたスポーツ、鉄道ほか。
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