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世界史雑記帳(12)~銅銭の不思議さ3~

銅銭の話は、去年の5月18日のブログや、「歴史的思考力を伸ばす授業デザイン」(明治図書)の拙稿にも書いたのだが、重要な問題で適切な理解がなされていない事柄が少なくない。

たとえば、中世日本ではなぜ自前の貨幣を鋳造しなかったか?
貨幣経済や市場経済の未成熟というのは答えにならない。中国銭や、それを模鋳した銭を大量に使用しているのだから。しかも地方ごとに、宋銭、明銭など主に使われる銅銭が違っていたことが知られている。これは一方で貨幣統一をするような統一的国家権力の不在(強権的統制という面で、貨幣への信用の付与という面の両方がある)えを、他方で地域ごとの市場圏の成長を意味するのだろう。いずれにしても、前近代に「一国一貨幣」は当たり前でないことを、よくよく頭に入れてほしい。

そして、貫高制が定着していたはずの戦国後期に、なぜ石高制への移行がおこったか。これも銀などの貨幣使用は一般的には拡大を続けており、自給経済・現物経済への回帰などの説明は間違っている。変化したのは、土地や知行などの価値・価格表示の尺度が銅銭から米に変わったということである。その原因は現在では、日本への銭の供給元だった福建省で当時の銀の大流入に伴っておこった通貨変動により、一時的に銅銭の流入がストップした。そこで銀を価値表示の尺度にする選択肢もあったが、それでは国際的な経済変動の影響を受けやすくなるので、そういう影響の少ない米を価値表示の尺度に選んだのだ、と理解されている。

また中国では、元代に銀の使用が一般化し、明代以降は銀が大量流入して税制も銀建てになってことがよく知られているが、そこで銅銭は使われなくなったと思っている先生や生徒が多いのではないか。とんでもない。これも価値・価格(税額)の尺度や遠隔地取引の決済手段が銀になったのであって、日常的な少額取引は銅銭、遠隔地間や巨額の取引は銀という二重構造はなくならない。乾隆帝時代の経済の安定・拡大の一因は、清朝による良質の銅銭の大量鋳造だった。清朝が日本貿易を継続した要因は、銅の輸入にあった(雲南やベトナムの銅山が開発されると日本銅の輸入は減少し、日本側は海産物以外にめぼしい対中輸出品がないという状況になる)ことは、ご存じのかたも多いだろう。(続く)


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ダオ・チーラン

Author:ダオ・チーラン
ヒツジ年生まれで写真のニワトリに深い意味はない。横浜で生まれ育った関東人だが、大学入学後現在まで関西で暮らしている。
本業は歴史学者で、専門は中・近世のベトナム史、海域アジア史、歴史学の評論・解説など。
趣味はパ・リーグを中心としたスポーツ、鉄道ほか。
このブログの意見はすべて筆者個人のものであり、いかなる組織にも関係ありません。

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