私、日本語が話せるのに....

毎日新聞(大阪本社版)の投書欄が、このところ多分意図的に、外国人留学生が日本語で書いた投書を掲載している。中国や韓国からの留学生に続いて、今朝はドイツからの留学生。

内容は「自分が日本で通行人や駅員、店員などに日本語で話しかけても、相手はそれを無視して、英語で(うまく話せない英語で必死になって)答えようとする、日本人は外国人なら全員英語ができると思い込んでいるが、英語の出来ない外国人もたくさんいるので、コミュニケーションのために日本語で話す外国人のことも無視しないでほしい」といったところである。

こういう問題に関心のある人間にとっては目新しい話題ではないが(他の分野でも、言い古された話題を蒸し返す投書は多い。気の短い私などは思わず「それは散々議論した話題です」と教えたくなることがよくある)、こういう実態は今でも多いのだろう。

投書した留学生は、自分の日本語を「無視された」と書いているが、より心理学的ないし文化人類学的に解釈すれば、これは「目の前の外国人(特に東アジア以外の外国人)が日本語をしゃべる」ということが、その人の認識や行動のパターンに組み込まれていないということである。私はベトナムで同じような体験を数限りなくしてきた。こちらが(もちろん下手なのだが)ベトナム語でしゃべっても最初はその事態が理解できない、ワンテンポおいて「あ、こいつはベトナム語をしゃべっているのだ」と理解する。

この問題は、世界の中でも近世以降に他民族雑居社会の経験を捨ててしまった中華世界の周辺諸国では、特に深刻だと思われる。

以下は手を変え品を変え述べてきたことであり、国際交流の場ではすでに普通に認識されているのだが、国際化というのは日本人が全員英会話ができるようになるなどという単純なことではない。
日本人も英語を含むいろいろな外国語を身につけるにこしたことはないが、他方で日本に住んだり留学する外国人が普通に暮らせるようにするには、その人たちが「下手な日本語で暮らせる社会」を作らねばならない。そのためには日本人側にも、「外国人の日本語を理解し、相手にわかる日本語で話す」訓練を一般化させる必要がある。それは、日本人が自分たちの言語生活を見直す機会にもなる。
小学校でどうせ不十分に終わる英語教育などするより、「日本語で外国人と話す」練習のほうがよほど意味があるはずだ。
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ダオ・チーラン

Author:ダオ・チーラン
ヒツジ年生まれで写真のニワトリに深い意味はない。横浜で生まれ育った関東人だが、大学入学後現在まで関西で暮らしている。
本業は歴史学者で、専門は中・近世のベトナム史、海域アジア史、歴史学の評論・解説など。
趣味はパ・リーグを中心としたスポーツ、鉄道ほか。
このブログの意見はすべて筆者個人のものであり、いかなる組織にも関係ありません。

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