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安冨歩さんの論点

「原発危機と「東大話法」」の出版や、「魂の脱植民地化」のプロジェクトなどで知られた安冨歩さんの話は、與那覇さんの師匠というだけあって、期待通りにとても面白かった。

「学びてときにこれを習う、また楽しからずや」うんぬんという論語の文句について、中国・日本の従来の権威ある注釈・翻訳とはずいぶん違った読み方ができる、という話を枕に安冨さんが主張したのは、

1.われわれは日本語で考え表現する場合ですら、近代西洋的思考法のなかに取り込まれている。(東アジア関係学を創るには)そこから脱出して独自のことばをもたねばならない。
2.それは、「すでに確定した正しいことば」ではなく、そのための学びは、「学んだことが身についたと実感する喜び」を各自がそれぞれのやり方で感じるような、開かれたものでなければならない。

といった事柄だと理解した。2については討論でも、「正しいことばを覚える」やり方は必ず抑圧を生むこと、学問の「ディシプリン」というのはなにかを「見てはいけない」というタブーを共有することだ、などの点を強調された。また情報が幾何級数的に増加・氾濫している現在、「たくさん知ること」は学問の目標にならない、という点も明快に指摘された。

いっぽう私は、今までの講演や原稿と比べてもいちばん詳しく、阪大東洋史のカリキュラムや教育方法について紹介しようとした(が、前置きで外国人向けに「日本史・東洋史・西洋史の三区分」などの話をして、しかも通訳を気にしてゆっくりしゃべったら、本題である「阪大史学の挑戦」と東洋史の紹介をする時間が足りなくなってしまった。オソマツ)。名大の先生方や院生には興味をもってもらえたが、安冨さんの論点からすれば、こういう緊密なカリキュラムによる熱烈指導は抑圧につながるものとも言える。成田龍一さんに「1冊の教科書を作ってしまうことの権力性」を指摘されたのも、同質の問題だろう。

実際、阪大東洋史にも「体育会の先輩による後輩いじめ」に近いことがある。特に内部進学をした院生が、自分たちが学部時代にたたき込まれた知識やスキルを共有しない他大学出身の院生に対して違和感をむき出しにするようなケースは、阪大東洋史の教育がそれを強めてはいないかという反省的なまなざしが必要だろう。

ただし、今回のシンポで名大の院生も発言していたが、阪大のように熱烈指導をしていなくても、学部時代と別の大学や専攻に入学した院生に対しては、生え抜きの院生が違和感や敵意を示すケースが圧倒的に多い。

これは要するに、「自分と違う論理をもつ者に対しては、まず好奇心でなく違和感をもつ」という日本人の大多数の心性が問題なのである。それは小さいときから執拗に、どこまでも執拗に刷り込まれ続ける。大学歴史教育にたどり着くずっと以前で、「開かれた言葉」の芽は摘み取られている。もちろん大学歴史教育がそういう抑圧に棹さしてはいけないのだが、それをもって系統的教育を否定することにはならない(もちろん安冨さんもそんなことは主張していない)。

それにしても、阪大東洋史の仕組みが体育会的であり、「開発独裁」に似た側面を持っているのは事実だ。
それが無用になる日が来るだろうか?

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ダオ・チーラン

Author:ダオ・チーラン
ヒツジ年生まれで写真のニワトリに深い意味はない。横浜で生まれ育った関東人だが、大学入学後現在まで関西で暮らしている。
本業は歴史学者で、専門は中・近世のベトナム史、海域アジア史、歴史学の評論・解説など。
趣味はパ・リーグを中心としたスポーツ、鉄道ほか。
このブログの意見はすべて筆者個人のものであり、いかなる組織にも関係ありません。

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