歴史の研究が職業になるのは当たり前か?

先日の東大との「若手交流会」で、東大のU君が1970~80年代日本の「社会史」の史学史を語ったのだが、そこで「初発の関心」として、「なぜ歴史を研究する人間、歴史を研究する職業が世の中には存在するのか」にふれたのが印象的だった。

当然これは自明ではない。「なぜ哲学を研究する人間が」「なぜ文学を研究する人間が」と置き換えても同じなのだが、人文学が専門的「研究」の対象とか「職業」になるかどうかは、近代以前はもちろん近代社会においても自明ではない。ある特殊な条件下でのみそれが可能になるという方が妥当だろう。

当日、経済史のS先生が「歴史学者がその点で思い悩むのが不思議である。自分が卒業した経済学部では経済学自体の社会的意義は疑う必要がないので、なぜほかの学問でなく経済学を選んだかは、「好きだから」で十分なのだ」という意味のことを言われたのも、とても面白かった。人文学者が自分の学問の意義を述べることにこだわるのは後ろめたさの産物というわけだ。

今朝、CSCDでばったり会った民俗学のMK氏と意見が一致した。こういう問題に思いを致さず、自分の存在を即自的に当然と思い、今まで通りの枠組みで「研究」を続けるような人文学の「専門研究者」「大学教員」は幸せな人々である。もちろん、そういう生き方も全面否定してはいけない。だがそれには「覚悟」がいる。阪大東洋史の言い方をすれば、世界レベルのプレーヤーならそれでいい。だが、国体レベルだったら税金を使う資格はない。

別の説明をしよう。教員になって生徒から、あるいは勤務先の同僚から「歴史なんてなんの意味があるんだ」と言われて説得的な答えができる人間は、歴史が職業になるかどうかについても一定の考えをもてるはずだ。

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ダオ・チーラン

Author:ダオ・チーラン
ヒツジ年生まれで写真のニワトリに深い意味はない。横浜で生まれ育った関東人だが、大学入学後現在まで関西で暮らしている。
本業は歴史学者で、専門は中・近世のベトナム史、海域アジア史、歴史学の評論・解説など。
趣味はパ・リーグを中心としたスポーツ、鉄道ほか。
このブログの意見はすべて筆者個人のものであり、いかなる組織にも関係ありません。

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