「日本人 この臆病な人びと」

私の日本人論のタイトルの2冊目はこれである。

仙台の人が、「福島県にある」という理由で会津若松への修学旅行に反対した、という新聞記事があった。福島原発からの距離は、仙台も会津若松もほぼ同じなのに。

こういう「少し考えればわかるだろうに」という事柄でも理解できない(理解しようとしない)人は、世界のどこにでもいるだろう。危険度ないし安全度に関していくら数字を示しても、こういう人にはたいてい役に立たない。

これらは、被災地に対する偏見で説明されることが多いように思う。それももちろん、間違ってはいないだろう。だがここでは、そういう意見がいったん出てしまうと校長先生でも学術専門家でも説得できない、校長や教育委員会が「反対があってもそれは科学的でないから予定通り修学旅行を実施する」という決定を下すことも困難だ、という日本社会のしくみの方を問題にしたい。国によっては、こういう父母がいても「非科学的だ」と一蹴して、修学旅行を強行するはずである。

日本の「いったん不安になったら安全と言われても耳を貸さない父母」や「強く反対する父母がいたら決められない校長」などに共通するものは、「臆病さ」「心配性」ではなかろうか。平安貴族などにすでに顕在している病的な清潔好き(近世世界に稀なクリーン都市江戸を生む一方、現代に至ってアトピーを国民病にした)、ときには世界を席巻するがときにはガラパゴス化もする日本の超厳密な品質管理なども、かなりの部分は「臆病さ」「心配性」の産物と理解できそうに思われる。

他人と違うこと、既存の枠をはみ出すことを極度に恐れる点は言うまでもない。前回に書いた「極端さ」とこの臆病さが、内田樹氏が「辺境論」で書いたような周辺コンプレックスに結びつくと、日本史上に何度か現れた「外部のモデルへの過剰適応」にもなる(ただし周辺コンプレックスでも稲作社会論と同様、すべてを説明することはできない。よく似たコンプレックスをもつ稲作社会のベトナム人は、日本人ほど極端でも心配性でもない)。

これらの問題は、みなさんがすでにお気づきのとおり、昔から「日本は近代化が不十分で、個(自我)が確立していない」「日本は“出る杭は打たれる”ムラ社会で突出したリーダーが出ない」といったかたちで論じられてきた事柄とも、大幅に重なっている。ただし、「近代化が不十分なムラ社会」の典型とされる北部ベトナムの人々は、ここまで神経質ではない。繰り返すが、私は歴史学者だから、超歴史的で日本列島中が均質な「国民性」などというものは、「環境決定論」と同様、信じていない。が、少なくとも現代日本を理解するには、この臆病さ、心配性が重要なカギであるような気がする。
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ダオ・チーラン

Author:ダオ・チーラン
ヒツジ年生まれで写真のニワトリに深い意味はない。横浜で生まれ育った関東人だが、大学入学後現在まで関西で暮らしている。
本業は歴史学者で、専門は中・近世のベトナム史、海域アジア史、歴史学の評論・解説など。
趣味はパ・リーグを中心としたスポーツ、鉄道ほか。
このブログの意見はすべて筆者個人のものであり、いかなる組織にも関係ありません。

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