ベトナム学国際会議(3)

タンロン(昇竜)に関する私の報告は、今まで李朝関係ばかりやってきたが、今回はやっと陳朝(1226~1400年)に入り、「聖慈宮、上皇制と陳朝期タンロンの宮禁空間」という題で報告した。
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内容は(1)陳朝期の宮殿、城内の寺院などの建設情報の整理。
   (2)モンゴルの使者はタンロンのどの宮殿を見たのか。
   (3)上皇の宮殿はどこにあったか(宮禁空間の東か北か)。
の三題噺で、大半がこれまで論じられていない問題の提起である。
(1)は李朝に比べて情報が少ない(王族が地方に居住していたから、そもそも建築物が少なかったか?)が、上皇の宮殿「聖慈宮」が1230年からずっと存在したのに上皇は別の名前の宮殿で死んだ例がいくつもあることから、それらが聖慈宮の内部の宮殿名なのかそれとも外部の別の宮だったかという大問題があると点を紹介した。

(2)は数例残っている1280~90年代の元朝の使者の記録が、どれも正殿である天安殿に言及していないこと、「聖□宮」と欠字のある資料があることから、(上皇のいない時期も含めて)皇帝の宮殿でなく上皇の宮殿に案内されたものと推測した。城外の客館からのコースは、昇竜城の南大門にあたる大慶門でなく東の祥符門から入り、しかし禁裏の南門に当たる陽明門を通って、右奥の聖慈宮に案内されたものと思われる。
聖慈宮に案内されたのは、上皇が対モンゴル外交を担当したきたこと(一面では上皇の皇帝より強い権力を表し、他面では皇帝をモンゴルに直面させないことで帝権を守ろうとする戦略を反映する)から見れば当然であるが、従来だれも指摘していないので、けっこう受けた。

(3)は聖慈宮が皇帝の「官朝宮」の左つまり東にあるという記事と、上皇が「北宮」にいるという記事の矛盾を提起したものだが、答えは出ない。とりあえず陳朝がいろいろな面で漢代とくに前漢のモデルを取り入れていることから見て、都城のプランも前漢の長安にならった可能性があると問題提起したが、どの時代の中国のモデルを使うかという問題にまったく関心のないベトナムの研究者には受けなかった。しかし、長安「城」の内外に未央宮や長楽宮などいくつもの「宮」が散在する、城内で「宮」以外の空間はごく小さい、という後世にない長安城のプランは、(1)で紹介した問題から見ても、陳朝タンロンと似ている可能性がけっこうある。

3日目の午後にタンロン皇城遺跡の見学があり、全体の様子はおととし秋の1000年祭のときとほぼ同じだったが、あのときは一般客で押し合いへし合いだったのが、今回はゆっくり見学できた。
ベトナム人と日本人の間で「道か塀か」の論争が続いている黎朝の端門北側の遺構に隣接する進行中の発掘地(敬天殿寄り)で、今年の8月にはまだ出ていなかった李朝期の水路の遺構がつい最近発見されたのを見せてもらうことができた。
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ダオ・チーラン

Author:ダオ・チーラン
ヒツジ年生まれで写真のニワトリに深い意味はない。横浜で生まれ育った関東人だが、大学入学後現在まで関西で暮らしている。
本業は歴史学者で、専門は中・近世のベトナム史、海域アジア史、歴史学の評論・解説など。
趣味はパ・リーグを中心としたスポーツ、鉄道ほか。
このブログの意見はすべて筆者個人のものであり、いかなる組織にも関係ありません。

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