ベトナム学国際会議(2)

会場は第3回と同じメーチー(ミーディン)の国際会議場。
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ベトナム研究であれば分野を問わないということで、参加者合計が1300人あまりが15の部会に分かれるという大がかりな会議だったが、5年に1度のはずが4年に1度に突然(?)変わり募集が急だったことなどから、日本や欧米諸国の参加者は少なかった。第3回までは外国人中ダントツの参加者数だった日本からも、今回は参加者が少なかったが、留学中を含め何人かの若手と初めて会うことが出来た。外国人もウズベキスタンからの初参加など、34か国にわたったということで多様性は増した様子だ。

初日の午前は全体会、初日午後と2日目の午前・午後が各部会で、3日目は午前に全体会と閉会式、午後にエクスカーションという日程だった。私は初日午後は歴史部会(前近代史)、2日午前は地域研究(南部研究のセッション)とベトナム研究の資料・情報の部会(日本のベトナム研究の動向報告など)、午後に自分が報告する地域研究部会(タンロンに関するセッション)と渡り歩いた。自分のベトナム語がさび付いていて質問が理解してもらえなかったり発表のパワポで激しいスペルミスがあったのは悲しかったが、報告や質疑はそれぞれ面白かった。

歴史のセッションではポリヤコフ氏(ロシア)とグエン・ティ・フオン・チー氏が報告で取り上げた陳朝の「采邑」の性格をめぐりフロアからも意見百出で、私も日本の荘園制や高麗の土地制度などとの比較について意見を言った。
ポリヤコフ氏の仲間のロシアの研究者は、李陳時代の歴史編纂についてのお得意の発表もしていた(大越史記全書のロシア語訳を近く出すのでその準備と言っていた)。またこのセッションでは「宋会要輯稿・蕃夷道釈」の校簡をした中国の学者さんも来ていて、宋会要輯稿のテキストについて報告していた。

南部研究のセッションでは共同研究の代表だったファン・フイ・レー先生が扶南時代について報告した。扶南衰退の理由として、航海ルートの変化(マレー半島横断ルートからマラッカ海峡ルートへ)と「貿易帝国」扶南のルースな国家構造というおなじみの理由のほかに、4世紀から12世紀にかけては海面が上昇してメコンデルタの半分が海面下に没した(地質学の調査でわかったとか)ことが大きな理由だと言ったのが興味深かった。

ベトナム研究・資料の部会ではハノイ国家大東洋学部の先生が、チャンパーとササン朝ペルシアとの関係についてチームで研究した成果というのを発表した。ササン朝時代の直接の交流とイスラーム化以後に伝えられた「ササン朝の記憶」がごっちゃになっている点、ササン朝の活動とソグド人の海陸での活動など国外のイラン系コロニーの動きを区別しない点など、かなり「トンデモ史学」に近かった。日本でも一般の国際交流などでは「根拠のない俗説」がよく聞かれるが...

多くの部会でベトナム語のできない参加者向けの英語(一部は中国語)通訳が配置されていたが、とても優秀な人と相変わらずのお粗末な人が混在していた。歴史部会は残念ながら後者だった。中国の固有名詞をベトナム読みのままで発音して通訳になると思っている点は、そろそろなんとかしてほしい。プログラムはずべて越英併記されていたが、韓国人のベトナムへのdiasporaについての英語の発表でベトナム語タイトルがベトナムへのユダヤ人の移住にされてしまうなど、なかなか大変だった。



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ダオ・チーラン

Author:ダオ・チーラン
ヒツジ年生まれで写真のニワトリに深い意味はない。横浜で生まれ育った関東人だが、大学入学後現在まで関西で暮らしている。
本業は歴史学者で、専門は中・近世のベトナム史、海域アジア史、歴史学の評論・解説など。
趣味はパ・リーグを中心としたスポーツ、鉄道ほか。
このブログの意見はすべて筆者個人のものであり、いかなる組織にも関係ありません。

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