阪大歴教研11月例会

一昨日の昼間は強い雨が降っていたが、ふだんの月例会に負けない大勢の参加者があった。
元同僚の杉本淑彦さんのフランスの国民国家形成と文化財の関係を中心とした話、院生3人から文化の政治性について国歌(ラ・マルセイエーズ他)、衣服(スコットランドのタータンキルト)、体育(近代日本の小学校の運動会)というテーマでの発表、というプログラムだった。

それぞれ面白い話だったが、近代国民国家にかかわる文化の政治性の話題ばかりだったのは、ちょっと問題かもしれない。少なくとも報告者は総論部分で、その点にふれておくべきだったと思う(あるいは司会者がひとこと注意喚起をする)。文化の政治性という問題は、前近代を含め通時代的に存在するし、国家類型から言っても国民国家と帝国の両方にかかわる問題だからである。実際の日本の学界や大学教育界でも、国民国家批判はきわめて太い流れになっているが、それだけに文化の政治性という普遍的な問題群を、国民国家批判という「部分的」課題に解消してしまう傾向も気にならなくはないのである。あるいは、ヨーロッパ型の近代国民国家の形成が、世界システムや植民地支配の拡大と表裏一体の過程として進行したこと、つまりそれらの国家は純粋な国民国家でなく「国民帝国」として形成されていったのだという帝国研究からの指摘なども、必ず思いだすべき論点だろう。

そのうえでしかし、文化の政治性とくに「創られた伝統」の問題が、近代国民国家とともに浮上してくる面があるのはなぜか説明できるか、とあとの飲み会で院生には質問した。「想像の共同体論」などの基礎だが、以下の点を理解しておく必要があるだろう。
・近代国民国家は、中世までの「神聖帝国」のような普遍性・宗教的神聖性を否定する動きのなかで成立する。それに代わる個別的・世俗的な新しい文化的正統性を創造し、印刷とマスコミ、学校教育などの新しい回路を通じて大々的に国民への刷り込みをおこなった点が、きわめて新しい。
・その文化的正統性は、「近代国家なのだから前近代的なものの全否定の上に成り立つ」という素朴な考えに反して、しばしば「悠久の伝統」や「苦難と栄光の歴史」の共有をよりどころにする点がユニークである。つまり、「純粋な近代性の主張」は宗教的な神聖帝国の主張と同じく普遍的なものであろう。「たくさんあるものの一つ」であることを基本原則とする国民国家に、それでは具合が悪い。だから「他にはない独特の」伝統や歴史が必要とされ、それが歴史学・民族学など「近代科学」の力も借りながら創造されてゆく。
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ダオ・チーラン

Author:ダオ・チーラン
ヒツジ年生まれで写真のニワトリに深い意味はない。横浜で生まれ育った関東人だが、大学入学後現在まで関西で暮らしている。
本業は歴史学者で、専門は中・近世のベトナム史、海域アジア史、歴史学の評論・解説など。
趣味はパ・リーグを中心としたスポーツ、鉄道ほか。
このブログの意見はすべて筆者個人のものであり、いかなる組織にも関係ありません。

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