スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

超大国の鈍感と日本の過敏

少し前のCSCDのリレー講義「メディア技法と表現リテラシー」で、日本と中国の社会・国家の歴史的な共通点と違いについて若干の講義ののちにディスカッションをしてもらった(一部はおとといの高齢者大学校のネタとも重なる)。

受講生からけっこう鋭い意見が出た。
日本(人)は国際標準に合っているか、外部からどう見えるかを異様に気にするが、中国(人)はそうではないという点も、その一つだった。これは日本とアメリカを対比しても同じことだ。

中国やアメリカのような超大国は、内部に非常な多様性をもつ(許容する)かわりに、その多様なレパートリーに入っていない外部の異質な仕組みや考え方にはまったく反応しない場合が多い。沖縄でのアメリカの行動などもその例だろう。

中規模国家(国民)は一般に、内部がより単純なかわりに、必要となれば外部に合わせることについて過敏になりがちである。
日本(人)はその極端な姿で、外部の原理や考え方を100%実践しようとする。すると、そんなことはたいてい不可能だから、息切れして逆の極端の鎖国や国粋主義に突っ走るケースが出てくる。
「いい加減」「ほどほど」ができずに「朝貢したら本当に属国にならねばいけない」などと思い込むから、中国とは昔も今もつきあえない。同じく、英語がいつまでたっても上達しない(アメリカ人なみにしゃべれねば、などと考えるところがスゴイ。それがスゴイことにみんなが気づかないのが、もっとスゴイ)。

超大国とどっちもどっちなのだが、こういう違いをせめてみんなが理解するようにできないか。



関連記事
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

ダオ・チーラン

Author:ダオ・チーラン
ヒツジ年生まれで写真のニワトリに深い意味はない。横浜で生まれ育った関東人だが、大学入学後現在まで関西で暮らしている。
本業は歴史学者で、専門は中・近世のベトナム史、海域アジア史、歴史学の評論・解説など。
趣味はパ・リーグを中心としたスポーツ、鉄道ほか。
このブログの意見はすべて筆者個人のものであり、いかなる組織にも関係ありません。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
アクセス・カウンター
あなたは
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。