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西洋史学の現代的課題

大阪歴科教というところで出している「歴史科学」という雑誌(210号)に、珍しくとても勉強になる面白い記事が載っていた。

ビザンツ史の井上浩一さんの講演にもとづく原稿「西洋史学の現代的課題-ビザンツ史研究と戦争-」である。
「はじめに」のあとの第一節では、日本の西洋史研究の最近の状況を、「筆者未見」から「筆者のみ見」へ、という皮肉の効いた小見出しで紹介する。かつて原史料などあまり手に入らず西洋人の著作の紹介と解釈に明け暮れていた西洋史も、現在では原史料を使わなければ研究ではないという状況に変わってきた、それは当然の方向だが、しかし言語のハンディや時間の制約のために重箱の隅をつつく論文が増え、筆者しか見たことがない史料を使うだけでなくその論文自体が筆者以外のだれにも読んでもらえないものになっているというのが、小見出しの意味である。
第二節では、西洋史研究の意味をめぐる学界の議論を紹介する。竹中亨、川北稔など阪大関係者が重要な役割を果たしている(平たく言うと、爆弾を投げてきた)ことを部分的には知っていたが、まとめて書いてくれたので私には勉強になった。
竹中さんは原史料を使った「発見する歴史学」とかつての西洋史学のような「解釈する歴史学」を区別し、高山博さんは人類が共有する知的財産を増やす「ハード・アカデミズム」とすでに存在する知を人々にわかりやすく伝え伝授する(一般に言う「教育」だけを意味するのではなく、「学界での議論の交通整理、問題提起」なども含む)「ソフト・アカデミズム」に分けた。両者は近似した対概念と理解され、その理解にもとづいて西洋史学会大会などで論争が行われた。竹中さんは日本の西洋史はやはり「発見する歴史学」で世界に互していくのは難しいから、日本国内で「解釈する歴史学」に徹するべきだと--想像するに竹中さんらしい皮肉と「わざと議論を刺激する」目的で--主張し、高山さんや横山良さんは、世界に互して「ハード・アカデミズム」で進むことを主張したのだそうだ。

ハード・アカデミズム論は、スポーツや芸術でもオリンピックや国際コンクールへの挑戦が当たり前になり、国内チャンピオンになっただけでは意味がないとされる今の状況と同じものである。日本の学問や経済の力からすれば、そうなるのが望ましいだろう。だが川北さんは、「いま「西洋史学」として研究されている仕事の大半は、社会的に見て無意味である」と、この私でもすぐには言わないようなきついことを公然と言っているのだそうだ。世界になかなか通用しない、しかも問題設定は先行世代や西洋人に任せて細かい実証のみに専念する(西洋社会の原理から見て、それではいくら精密でも受け入れられないだろう)というありようが事実だとすれば、それが(とりわけ国公立大学でおこなわれることについて)社会的に正当化できないのは明らかだろう。私がいつもしている言い方で言えば、学問そのものの絶対値はプラスにできるが税金投入の費用対効果でみればマイナスの「無駄な公共事業」のごとき研究がとても多いということだ。
南川高志さんも、「西洋史研究は何の役に立つのだろうか」を問い、欧米学界で本格的に活動することだけでなく、新しい歴史観を広く日本社会に発信することを呼びかけたそうである。

そのあとにしかし、井上さんは面白い「第三の道」を提示し、自分はその道を選択したと述べている。ここがすごく印象的だった。手前味噌だが、私と考えがすごく近い。
それは、上の論者たちが「解釈する歴史学」「ソフト・アカデミズム」を「日本国内専用」と前提して議論をしてきたのに対し、「ソフト・アカデミズムの国際化」をはかる道である。グローバル化は「解釈する歴史学」の国際化をも要求しているというのだ。ビザンツという「西欧中心の世界史像」のかげで歪んだ歴史を押しつけられてきた国家の研究だから、そういう役割が果たせるという井上さんの主張は、東南アジア研究者としてもよくわかる。歴史を考える構図や方法を組み替えるというソフト・アカデミズムの仕事抜きでハード・アカデミズムだけを進めても、妥当な歴史像は永遠に築けないからだ。阪大の西洋史の先生がこのごろ韓国や中国によく行っているのも、ソフト・アカデミズムの国際化にかかわる動きと言えるだろう(日本的な西洋史学が意味を失うかわりに、「東アジア的な西洋史学が意味をもつかもしれない)。

第三節ではその実践例として、従来人気がなかった「ビザンツの戦争」の研究をあげている。人気がなかったのは要するに弱かったからだが、その戦争観を探ると、西欧の誇る「自由と民主主義」が戦士共同体のそれであり、戦争や暴力と対になっていたことがはっきりわかるし、世界のビザンツ戦争史研究は今や、ヒロシマ・ナガサキすら視野に入れた研究をしているのだという。西欧史そのものが現在では、近代化は市民の成長が生んだというより戦争そのものが生んだという理解に傾いているのだが、世界システム論や国民国家批判とは違ったところから「ヨーロッパ」や「近代」を問い直すこうした視点も意味があるだろう。

それにしても、上のような自己否定的発言をおこなう教員が多い大阪大学の西洋史学専修には、相も変わらず「進んだ、エレガントなヨーロッパ」にあこがれる学生が、毎年おおぜい入学してくる(あてが外れて失望する学生も少なくないようだ)。教養課程でも専門課程でもいろいろやっているが、これは高校までの教育を根本的に変えないとダメである。

ちなみに井上さんは、ハード・アカデミズムとソフト・アカデミズムは両方必要であるが、個々の研究者はどちらに重点を置くか選択しなければならない、それは学界・社会を見渡して個々人が選択することが必要だ、と述べている。大事な視点だが、そういう選択が保証されるためにも、大多数の青年がアジアやアフリカより日本と西洋に関心ないし親近感を抱いて人文系学部に入るという現状を変えねばならないのである。

もう一点、いつものグチになるが、西洋史学はとにかくこういう議論を学会でしている。
東洋史学はなぜできないのだろう。
東洋そのものが近代西洋によって創られた観念であって実態ではないというのは、この場合の答えにはならないはずなのだが。



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ダオ・チーラン

Author:ダオ・チーラン
ヒツジ年生まれで写真のニワトリに深い意味はない。横浜で生まれ育った関東人だが、大学入学後現在まで関西で暮らしている。
本業は歴史学者で、専門は中・近世のベトナム史、海域アジア史、歴史学の評論・解説など。
趣味はパ・リーグを中心としたスポーツ、鉄道ほか。
このブログの意見はすべて筆者個人のものであり、いかなる組織にも関係ありません。

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