「歴史評論」の特集(続き)

昨日紹介した「歷評」特集号の、野口剛論文の後半をやっと読んだ。
まさかスキャンしてここに載せるわけにはいかないが、院生たちに全文を筆写でもさせたいぐらいだ。

学術会議の提言についても、入試に関する部分が消極的すぎる、入試を変えなければ学会による用語精選も失敗するだろうという、的確な評価をしている。
「小学校から高等学校に関しては、少なくとも理念の上とはいえ一貫歴史教育プランといったものも考えられてはいる。しかし、高等学校以前と大学との間には歴史の授業形式にしても中身においても深い断絶が存在する。大学以後の段階では「歴史教育」という言葉が馴染むかもかなり怪しい」(p.55)
ここも「研究者」たちに暗誦テストでも強制したいところだ。

「思考力養成型」の授業というと主題学習型に短絡し、違った原理でできている通史学習に割り込ませる形でおこなってきたために、木に竹をつぐような不整合をおこしてうまくいかなかったのだ、という指摘(p.57)もまったく「我が意を得たり」である。

「通史や世界史というものは、個々の史料を読み解く際に、その妥当性、客観性を担保するものとして位置づけられなければならない。構成主義的な学習方法がもつ恣意性、不安定性を防止するためには、結論とそれにいたる思考過程を航海して相互批判できるようにすることとともに、日本通史、世界史といった構造的な枠組みの中に位置づけることが必要である。」(p.57)
高校で通史を全員が暗記しているというアナクロな前提をもとに、通史でないテーマ史ばかり称揚する大学の先生たち(ポストモダンかぶれも含む)に、ここも暗誦させる必要がある。

「そして、いま明確なことは、高校生の圧倒的多数は歴史学者になるわけではないということである。そうした生徒に、試験が済めばほとんど忘れ去られる歴史用語の暗記を強制してはいけない。したがって、「歴史の学び」が原初的形態に戻る(引用者注:「過去の史料を厳密に読むことによって、現在の自分の状況をより正確に把握し、生存に役立てること」という「歴史の学びの原点に立ち戻る」ことによって、現在の学びの危機を克服しようという著者の主張)ということは、同時に現在の日本通史も世界史もその書き方が革められなければいけない。そして、そうした「歴史の学び」においてえられた技能と知見は、われわれがわれわれ自身の社会をつくる際に用いられなければならない...」(p。57)
これに使える日本史や世界史を書くこと。「阪大史学の挑戦」の究極の目標だ。


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プロフィール

ダオ・チーラン

Author:ダオ・チーラン
ヒツジ年生まれで写真のニワトリに深い意味はない。横浜で生まれ育った関東人だが、大学入学後現在まで関西で暮らしている。
本業は歴史学者で、専門は中・近世のベトナム史、海域アジア史、歴史学の評論・解説など。
趣味はパ・リーグを中心としたスポーツ、鉄道ほか。
このブログの意見はすべて筆者個人のものであり、いかなる組織にも関係ありません。

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