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法学よ、お前もか!

朝、家を出しなにクラシカ・ジャパンでベートーベンのピアノ・コンチェルトの3番を聞いた。バレンボイムの独奏兼指揮。夜、家に帰ると今度は同じ顔ぶれで2番のコンチェルトをやっている。どちらのコンチェルトも、聞くのは久しぶりだ。そのあとはブラームスのヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲。ダヴィッド・オイストラフとロストロポーヴィチ、指揮はキリル・コンドラシンのモスクワ・フィル。「ソ連」という国家が確かに独自の価値をもって存在したことを思い出させる名演だ。

昼間、CSCD教員が全員参加する「CSCD研究会」で、センター長に就任された法学研究科の三成賢次先生の研究紹介を聞く。歴史学と同様に19世紀のヨーロッパで発達した法学やその日本での展開が、よく似た問題を抱えていることが印象的だった。19世紀の学問と20世紀の学問、ヨーロッパ製の学問とアメリカ製の学問の差異を強調した今年の史学概論やCSCD科目「歴史のデザイン」のイントロは間違っていなかったようだ。

とくに印象的だったのは、かつて「日本に悪影響を与えた国権主義のプロイセン・モデル」と見なされてきたものは、実際の法制がちっとも統一されていないのを「法学で統一しよう」と考えて創造されたものだ、ところが明治日本はそれを(勝手に)実態化した、というくだり。
なんだ、歴史学も法学も、ドイツのそれは実態のないみんな統一(国民国家)を創り出すための学問で(それゆえにこそ世界最新だった)、それを日本が真に受けて、その理念の実現にしゃかりきになったんだ。唐から律令を輸入したときもそうだし、安易な国民性論で説明するのは歴史学にとって自殺行為なのだが、8世紀と19世紀(それに第二次大戦後)の「日本」で、「世界最先端の理念を実態と勘違いしてその導入に夢中になる」という、よく似たプロセスが展開したことは否定しがたい。

次に印象的だったのは、プロイセンやドイツの末端社会が集権的な法律通りに動いていたわけではなく、そこは財産と教養をもつ有力者(名望家層)が動かしていた、その点は明治日本も似ているのだが、日本の場合は本当の有力者が議員などのかたちで表に出ずに「裏に隠れて支配する」かたちを取る傾向が強かった点が違う--表に出てくる政治家はだから質が悪いのばかりになる--のだ、という話である。
日本史研究者はだれも知らないかもしれないが、これは日本の権力だけの特質ではなく、ベトナム北部の村落共同体についても、同じことが指摘されている。もしかしたら、その重要な前提は中華型の国家・社会にあるのかもしれない。中華型の国家というのは、ヨーロッパと違い「社会に干渉する万能の権利を留保する国家」である。うっかり表に出て素手で国家と直接向き合ったりすると、ひどい目にあう。それに対応する社会の側も、中国の場合であれば「もっともホッブズ的な万人の万人に対する闘争状態を許す社会」である。村落共同体などの中間団体を強化する、権力を多重化して責任の所在をあいまいにする、など日越共通のパターンは、この「大野獣」的(ホッブズの国家観に関するクリフォード・ギアツの表現)な国家・社会モデルを「飼い慣らす」努力の産物ではなかったか。

印象に残った話をもう一つ。三成先生が委員をしている大阪府のある委員会は、学者が数名含まれることになっているが、それは府下の4つの有名大学だけから委員が選ばれることになっているのだそうだ。「とりあえずメジャーな有名どころを選んでおけば無難→その他にいくら優秀・必要な人や組織があっても無視」という、日本中を覆うこの考え方を変えるには、どうしたらいいのだろうか(これを変えねば、パリーグも人文系のアジア研究も永遠に浮上できないことは、あちこちで書いたり話したりしてきた)、。
毎日新聞夕刊で内田樹氏が、今回の震災による原発トラブルへ東電の対応に「リスクを最小化する発想に欠けている」ことを指摘している。日本の組織は平時にうまく行くマニュアル作りは得意だが、非常時にマニュアルを超えて判断したり臨機応変に処置することは不得意だというのだが、歴史的に見ても、平安時代中期以降の律令制の換骨奪胎、江戸時代の鎖国と幕藩体制など、日本では何度も「マニュアル通りに動けばよい超安定システム」を作ってきた。そういうシステムを作る能力は世界的に見てもすごいものだと思うが、それがリスクに対処する能力を奪うし、「メジャーでないもの」を見えなくしている点は、どうにかしなければいけない。

もっともそういう日本史の特質は、有史以前からのDNAに由来するものでもなければ、日本列島内部で勝手にできたわけでもなかろう。上でも書いたように、「グローバル化」が進んだ唐代や大航海時代の東アジアの、よく言えば活力に満ちた、悪く言えば荒々しすぎて危険きわまる国際環境と中国モデルの重圧(9~10世紀や17~18世紀にはその負の側面も顕在化している)に対処する、必死の模索の結果であるという側面を、歴史学なら見ることHができる。他方、中世日本というのは、やはりリスクに満ちあふれた状況下で、マニュアル通りでもワンパターンでもないさまざまな実験を延々とつづけた時代ではなかったか。日本列島の住民が歩む道は、決して遺伝や自然環境で決められた同じパターンの繰り返しではなく、時代ごとにいろいろな模索と選択をしてきたのだから、今後も違った道に進める可能性はある。その点で私は、絶望してはいない。





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ダオ・チーラン

Author:ダオ・チーラン
ヒツジ年生まれで写真のニワトリに深い意味はない。横浜で生まれ育った関東人だが、大学入学後現在まで関西で暮らしている。
本業は歴史学者で、専門は中・近世のベトナム史、海域アジア史、歴史学の評論・解説など。
趣味はパ・リーグを中心としたスポーツ、鉄道ほか。
このブログの意見はすべて筆者個人のものであり、いかなる組織にも関係ありません。

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