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白熱教室?

阪大創立80周年記念事業の一環として昨年CSCDがおこなったラウンドテーブルの記録が、阪大出版会から出た。
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例によって年寄りの眼にはやさしくないが、中身はいろいろ含蓄がありそうだ。

昨日の6限のCSCD授業「歴史のデザイン」は、そういうCSCDの理念を体現したような白熱した討論が(実は7時半の終了後に)延々と行われ、帰宅がすっかり遅くなってしまった。

今日もグループ発表で、今日の班は宗教について発表したのだが(イスラームと経済、キリスト教とアメリカ政治、上座部仏教と庶民のくらしなど)、討論のなかで出てきた「科学と宗教」の関係について、学部生のN君が「科学も一定の約束の範囲内で有効な説明を与えるだけであるから、それは宗教の一種ないし宗教と同じ種類のものだ」と主張し、科学と宗教は目的や役割が違うのだというYさんほかと論争になったのである(9人の出席者がだれも帰らずに授業時間後1時間あまり議論を続けた--飲み会でも昔の学生運動の場でもないのに--ので感心した。文学部のN君が、科学万能的風潮を前提に、科学と宗教というような常識的な区分をひっくりかえそうとして、科学なんていっても宗教の一種にすぎないのではないかという方向で議論しようとしたのに対し、建築屋のYさんや法学部のH君が、科学が万能でないからこそ、その外側で宗教の役割(科学で説明できないことを説明したり、行動・生き方の指針や慰めを与えてくれる)があるのではないかという方向で議論をしたのは、議論を深めるのにとても有益だったと思われる。

「科学」と「宗教」の境目も性質の違いも、一般に思われているほど単純ではない、重なり合う点や共通点が多い、という点は、昨日の議論でもはっきりしとたと思われる。
しかもポストモダンの考え方に従えば、「科学」「宗教」などの本質を客観的に決定することはできないかもしれない。
だがそれは、「だから科学と宗教の区分は無意味だ」と「定義」していいということではないだろう。「既存の常識への批判」のある段階でそういう考えを主張することには意味があるとしても、それ自体を「正しい考え方」こしてしまったら、なにも議論が出来なくなる。やるならN君が主張したように、「科学と宗教」の定義の作りかえを目ざすべきだろう。

いや、N君はじめみなさんご苦労様。哲学カフェや科学技術論の人たちがいないのが残念な、「白熱教室」だった。



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ダオ・チーラン

Author:ダオ・チーラン
ヒツジ年生まれで写真のニワトリに深い意味はない。横浜で生まれ育った関東人だが、大学入学後現在まで関西で暮らしている。
本業は歴史学者で、専門は中・近世のベトナム史、海域アジア史、歴史学の評論・解説など。
趣味はパ・リーグを中心としたスポーツ、鉄道ほか。
このブログの意見はすべて筆者個人のものであり、いかなる組織にも関係ありません。

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