国民国家の歴史

CSCD科目「歴史のデザイン」
グループ発表の班分けが先週決まったので、今日はその「A班」(国家・民族単位の歴史は、現在の歴史研究・教育ではどう扱われているか)に、教科書記述の紹介をしてもらい、そのあとに「国家・民族単位の歴史」(国民国家の歴史)はどこが具合悪いか(なにが理解できなくなるか)、逆にどういう合理性があるかを班ごと(3つある)に討論してもらった。

言うまでもなく、国民国家を絶対視する史観は2つの方向から批判ないし相対化されている。
第一は、国家・国民・民族などの概念の見直しである。
ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体』はこの分野の古典である。
高校の教科書にもいまや、「民族」が客観的に定義できないことが書いてある。
ちなみに阪大文学部では、史学系より「日本学」専門分野がこの問題に強い。

第二は、世界システム論とグローバルヒストリー、かたやローカルな地域社会史など、国家・民族単位でない歴史の単位を重視することである。ウオーラーステイン『近代世界システム』は歴史系だけでなく国際関係論などの分野でも広く読まれていると聞く。
阪大史学系のもっとも得意とする分野である。

これらはわかりやすいのだが、近代国民国家やナショナリズムがもつ合理性はあまりうまく議論が進まなかった。
世界帝国や宗教による支配、植民地支配などからの解放[逆に言えば、前近代の国家は王の財産でなければ神のものであるのが普通だった]、あるいは侵略への抵抗のために、それが最大の選択肢だった(場合によっては今でもそうである)点を、歴史では押さえたい。
なお、国民国家という枠組みがあるからこそエスニック・マイノリティへの差別などの問題がはっきり見えるのだ、というひねった意見も出たのはおもしろかった。

それとからんでもう一点、世界システム論やグローバルヒストリーを拒否する人々が必ず持ち出す(一般論としてそれは誤解に基づく非論理的批判なのだが)、「外部の大きな力ばかり強調して個々の社会の自律性・主体性を無視する」という批判が、あてはまる状況もあるという点は忘れてはいけないだろう。

時間切れで「宿題」にしたのは、「国民国家というまとまりの正当性を教育で刷り込んできたのは歴史や地理、公民科だけか? ほかの教科・科目はどうか?」

『わかる歴史・面白い歴史・役に立つ歴史』に書いた私の説をまだ読んでいない方は、考えてみてください。

(蛇足)大阪の平和・人権に関する「自虐史観の」博物館をつぶして、かわりに「新しい歴史教科書」系の史観を「公平に扱う」博物館を造るんだとか。「自虐」に対抗して「自慰史観」というのは、SM博物館でも造ろうというのだろうか。

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CSCD科目「歴史のデザイン」グループ発表の班分けが先週決まったので、今日はその「A班」(国家・民族単位の歴史は、現在の歴史研究・教育ではどう扱われているか)に、教科書記述の紹介をしてもらい、そのあとに「国家・民族単位の歴史」(国民国家の歴史)はどこが具合?...

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ダオ・チーラン

Author:ダオ・チーラン
ヒツジ年生まれで写真のニワトリに深い意味はない。横浜で生まれ育った関東人だが、大学入学後現在まで関西で暮らしている。
本業は歴史学者で、専門は中・近世のベトナム史、海域アジア史、歴史学の評論・解説など。
趣味はパ・リーグを中心としたスポーツ、鉄道ほか。
このブログの意見はすべて筆者個人のものであり、いかなる組織にも関係ありません。

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