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トンズー運動じゃないってば!

京都の読書会で第1巻に続いて次回から読む「岩波講座東アジア近現代通史」第2巻を、出張の新幹線車内などで読んでいる。「日露戦争と韓国併合 19世紀末~1900年代」と副題のついた巻である。

このへんはベトナム史を含め私の知識が乏しい時期なので、勉強になる記述が多いのだが、ベトナムのファン・ボイ・チャウがおこした「東遊運動」の「東遊」(Đông du)に「トンズー」とルビが振ってあるのが気になった(「通史」と「東遊運動」のコラム)。別々の執筆者の原稿に両方とも同じルビがあるというのは岩波の編集者がやったことではないかとも推測されるが、研究者や高校の先生の」の間でけっこうよく見られる「トンズー」は、中国語に引きずられた間違った表記である。大出版社の出版物に間違った表記が載ると、それは学校教育や入試に悪影響を与えるということを、現在の私の立場からは問題にせざるをえない。

現代中国語(ピンイン表記)のdは無気音だからdongと有気音のtongはどちらも「トン」でいいが、ベトナム語のđは有声音だからđôngは「ドン」と書かねばならない。ファン・ボイ・チャウがおこしたのは「ドンズー運動」である。同様に北部ベトナムやその中心都市ハノイを「トンキン」と呼ぶのは中国語やそれを取り入れた英語であって、ベトナム語は「ドンキン」が本来の発音であるから、ファン・ボイ・チャウと同時期にファン・チュー・チンが作った学校は「ドンキン(東京)義塾」であって、「トンキン義塾」ではない。

「東遊運動」のコラムには、ベトナムの固有名詞(「東遊運動」「ファン・ボイ・チャウ」「ゲアン省」「フエ市」「クオンデー侯」「維新会」などなど)にベトナム語綴り(クオックグー)が併記してあるのだが、これがボロボロである。クオックグーには母音aとâ, ă,、eとê、 oとô, ơ、uとư、子音d[ʤ]とđ[d]など、母音・子音の区別を符号で表すものがたくさんあり、これとは別に各音節の主母音の上もしくは下に声調符号が付く。コラムで紹介されている現在のホーチミン市にある「ドンズー学校」(正しい表記はTrường Đông Du)のTrường(学校)は、ư、ơという符号付き母音の組み合わせ(二重母音)に、低く平らな声調を表す符号(ˋ)が加えられたものである。

以前は日本語の出版物でも英語や仏語のそれでも、こうした符号のなかの自分たちが知っている符号と同じに見えるものだけを印刷し(たとえばưをアポストロフのu’のつもりで印刷する〈符号の付く位置が違うことにご注意あれ〉、ôを仏語のアクサン・シルコンフレクスのつもりで印刷する、声調符号であるáをアクサン・テギュのつもりで印刷する)、知らない符号は無視するということがよくあった。しかし、母音・子音符号と声調符号を全部付けなければ原綴りを示したことにはならないから、一部の符号だけ付けるこのやり方は、はっきり言ってムダ、悪く言えば生かじりの知識をひけらかす嫌らしい態度の表明でしかなかった。しかも編集者や印刷屋さんはベトナム語そのものの綴りの規則を知っているわけではないから、アクサン・テギュのつもりでアクサン・グラーブを付けるなど、付ける符号そのものを間違うことがよくあった。今回の岩波はそういう古典的な失敗をしたのであろう。

以前は「特殊文字」はいちいち作字しなければならなかったから、こうなるのも無理からぬところがあった。しかし現在は、他の多くの文字と同様、クオックグーもすべてユニコードで簡単に打つことができ、それを印刷屋さんのコンピューターソフト上にインポートすることも可能である。

では岩波はどうすべきだったか。ちなみに当該コラムの筆者は日本語もよくできるベトナム人だが、年配の大先生なので、もしかしたらご本人に正確な綴りの電子ファイルをもらうことはできなかったのかもしれない。

もちろん編集者がベトナム語の綴りや綴りの規則そのものを知らないことを責めても仕方がない。ただ、世界には日本式、英語式、仏語や独語式などのどれとも全然違った符号や綴りと発音の規則をもつローマ字表記がいろいろあるのだということは、一流出版社の編集者なら知っていてほしい。東南アジアの主要言語はたいていその仲間に入る(フランス植民地だったことから勘違いしてクオックグーをフランス語式に読もうとする人がよくいるが、クオックグーの原型を作ったのはカトリックの宣教師だから、綴りと発音の規則はフランス語でなくラテン語やポルトガル語に近い)。

それを理解していれば、そういうヘンテコなローマ字を扱わねばならない場合は、「東南アジアを知る事典」「ベトナムの事典」などで確かめる、細かい符号など事典でもわからないものがあれば東京外大なり関連分野の本を出している研究者なりに相談して、チェックを依頼するぐらいのことは、一流出版社ならできるはずだ。仕事量から見て、とくに謝礼がたいへんとかいうものでもない。これを怠るのは、「東南アジアなど適当でいい」と馬鹿にしているせいだと言われかねない。
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京都の読書会で第1巻に続いて次回から読む「岩波講座東アジア近現代通史」第2巻を、出張の新幹線車内などで読んでいる。「日露戦争と韓国併合 19世紀末~1900年代」と副題のついた巻である。このへんはベトナム史を含め私の知識が乏しい時期なので、勉強になる記述が多...

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ダオ・チーラン

Author:ダオ・チーラン
ヒツジ年生まれで写真のニワトリに深い意味はない。横浜で生まれ育った関東人だが、大学入学後現在まで関西で暮らしている。
本業は歴史学者で、専門は中・近世のベトナム史、海域アジア史、歴史学の評論・解説など。
趣味はパ・リーグを中心としたスポーツ、鉄道ほか。
このブログの意見はすべて筆者個人のものであり、いかなる組織にも関係ありません。

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