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歴史学の論文はなぜ文章ばかり?

CSCD科目「歴史のデザイン」で、RAのI君(博士後期課程に進学したところ)に、インタビュー形式で研究生活や修論執筆の経験についてしゃべってもらった。

参加者から鋭い質問がつぎつぎ出たが、いちばん意表を突かれたのは、回覧した修士論文を見た建築学出身の社会人学生Yさんの「歴史学の論文というのはどうしてこんなに文字(文章)ばっかりで図表、写真などが少ないのだ」という質問だったように思う。

ひとつの理由はI君が正しく答えた。歴史学は史料の解読ないし読解が勝負になる。そこでは元の史料と著者の読み方を逐一対比できるように書かねばならないから、元の史料が文字で書かれているかぎりは長々と文字(文章)で説明せざるをえない。

Yさんの質問は自然科学の論文との対比で出たものだと思うが、社会科学と対比しても歴史学の論文は文章が多くて図表などが少ないと思われる。それは、同じ過去の事象を扱っても社会科学が一般的なモデルや理論の構築を目的とする(だから模式図とかフローチャートなどがよく出てくる)のに対し、歴史学が個別的説明や個性記述に重点を置くからである。

もう1点、Yさんは「およそ学術論文は先行研究に比べて新しい内容がなければならないはずだが、歴史学の場合の新しい内容とはどんなことか」と質問した。実に史学概論の授業に使いたい質問である。とりあえずえげるべきは、「事実」の新しさと「説明(解釈)」の新しさであろう。

学問によっては、こういうことに簡明に答えられない者が博士課程に進学することはありえないだろうが、歴史学は必ずしもそうでなく、I君の答えも、このごろの彼の勉強ぶりから見ればもたもたしたものだった。それは歴史学が「この実験ができない学生は次の段階に進めない」とかいう決まった勉強・研究の手順をあまりもたず、トータルでいくつかの能力や知識を身につければ順番はいろいろでかまわないからである。ただそれは、学問内在的には大きな問題ではないのだが、他の学問や社会との関係では具合が悪いことがある。同じ学年の他分野の院生がはっきり説明できる一般的なことを、歴史学(特に語学や独自の論理の習得などに手間のかかる東洋史の学生)が説明できないケースが多く生じると、学問そのものが劣っているように見られかねないからである。

このごろ私は「専門のゼミの危険性」をよく話すのだが、それは歴史学の専門家養成の場であるゼミは、日本の場合「仲間内での話し方をひたすら叩き込む場所」になりがちだからである。CSCDはその意味でいい他流試合の場だ。こういう場所でうまく質問に答えられなかった院生が、落ち込むのでなくくやしがって、「次はこう答えてやろう」「今度はこう反撃してやろう」と考えるようになったら、ぐっと力が伸びるはずだ。
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ダオ・チーラン

Author:ダオ・チーラン
ヒツジ年生まれで写真のニワトリに深い意味はない。横浜で生まれ育った関東人だが、大学入学後現在まで関西で暮らしている。
本業は歴史学者で、専門は中・近世のベトナム史、海域アジア史、歴史学の評論・解説など。
趣味はパ・リーグを中心としたスポーツ、鉄道ほか。
このブログの意見はすべて筆者個人のものであり、いかなる組織にも関係ありません。

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