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ベトナム語は入っているか

新幹線の中で井上ひさし『日本語教室』(新潮新書、この3月の新刊)を読む。上智大学で2001年10月から月1回、合計4回行われた講演会を活字化したものだそうだ。

最後の「世界にひらかれた日本語に」など、随所にいいことを言っている。が、尊敬する井上ひさしにしてこういう議論をしてしまうのか、とがっかりした。ひどくがっかりした。

この本は、特に前半で、非漢字系の外来語使用や和製英語にすごく否定的な議論をしている。外来語の濫用・誤用ごときで民族の文化や精神がダメになるとすると、東南アジア諸国の自立は永遠にできないことになる。

それより大きな問題は、外来語批判の一方で(加藤周一にならって)唱える、外来語をやむをえず使う場合には原音になるべく近い発音をせよという。「原音主義」である。一見もっともなこの考えが、高校世界史教科書にはわけのわからん固有名詞を氾濫させて、学習者を苦しめていることは言うまい。そもそも原音主義はどこまで可能だろうか。英語やフランス語・ドイツ語はいざ知らず、中国語やベトナム、タイ、ビルマの諸言語からの外来語や固有名詞を、ふつうの日本人が原音に近く発音できるだろうか? ベトナムの「アオザイ」や「フォー」がどんな母音・子音を使いどういう声調がついているか、ふつうの日本人にわかるだろうか。何度も書いてきたが、ベトナム語を習ったことのない日本語話者に、「ベトナム」という国名を正確に発音することは不可能である(しいてカタカナで書けば「ヴィエッナーム」。この前半に低く抑えて喉を緊張させる声調、後半に高く平らな声調がつかねば通じない)。

ここには、圧倒的多数の日本人が世界を論じる場合と同様に、「世界には、ふつうの日本人が知らない(カバーしきれない)たくさんの民族や言語がある」という考え方が抜け落ちている。そしてたいていの場合と同様、「知らない(カバーしない)」のは欧米ではなくアジアやアフリカの民族や言語である。

インドネシア語とマレー語の関係を逆に覚えていることは、本書の行論を大きく傷つけてはいない。中国語の声調が2000年前から「4声」だったように思っているのも、ご愛敬でいいかもしれない。こういう細かい点に目くじら立ててはいけない。
しかし171頁の、数の数え方が種類表示詞と結びつくこと(要するに1杯、1冊、1部、1枚など名詞の種類によって数え方が違うこと)を、「こういう数え方は世界にもあまり例がないかもしれません」はないだろう。この発言が偉大な言葉の専門家であった井上ひさしにとって大きな汚点でないとしたら、それは日本の知識人界全体が漢学知識を失う一方で欧米崇拝を再生産している事態を象徴するできごとといわねばならない。

漢文や現代中国語を習った者にとって、やっぱり名詞によっていろいろな数え方があることは常識だろう。
ベトナム語学習者は、「1枚の葉書」と「1枚の紙」では数え方(種類名詞)が違うこと、「1本の筆」と「1本の剣」でも数え方が違うことに悩まされるのだ。

本書には日本語の音声表現の豊かさの例証として擬声語・擬態語にふれた個所もある。それ自体は間違いだと思わない。が、著者はたぶん、ベトナム語を習いにきた外国人に向かってベトナム人の先生が「こういう擬声語・擬態語の豊かさはベトナム語にしかない」と自慢することはご存じなかったろう。

日越両国を含む漢字文化圏ないし中華文明圏諸国のインテリが世界と自国を論じる場合、自国と欧米だけを比べた議論を平気でするという共通の欠点がある。そこに中国が含められ比較的正確な議論がされることは少なくないのだが、東南アジアは全体像において無視され、よくても不正確な部分的知識が論及されるだけである(ベトナムでも自国以外の東南アジアを無視することが多い)。

本書のもとになった講演が、日本のアジア理解に貢献してきた上智大学、あの上智大学でおこなわれた点が、いよいよもって残念でならない。
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プロフィール

ダオ・チーラン

Author:ダオ・チーラン
ヒツジ年生まれで写真のニワトリに深い意味はない。横浜で生まれ育った関東人だが、大学入学後現在まで関西で暮らしている。
本業は歴史学者で、専門は中・近世のベトナム史、海域アジア史、歴史学の評論・解説など。
趣味はパ・リーグを中心としたスポーツ、鉄道ほか。
このブログの意見はすべて筆者個人のものであり、いかなる組織にも関係ありません。

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