遅塚忠躬「史学概論」(続き)

気がついたことの追加。
1.言語論的転回や物語り論(歴史は勝手なストーリーだという卑俗な「物語論」と区別して「り」をつけている)のことは非常に気にして、詳しい評価や批判をおこなっているが、文化人類学(や民俗学)にふれるところはごく少ないようだ。「岩波講座日本通史」で、日本史学界が人類学との関係を気にしていない点を問題にした章があったが、西洋史も--アナール派への影響などは常識でありながら--人類学への対抗を考えなくてすむとしたら、うらやましい。アジア史研究は--感じてない学者はいくらでもいるが--人類学によってボコボコにされてきたからだ。

構造主義以降の諸潮流と文化人類学はもちろん重なり合うところが多いが、そういう側面だけではなく、フィールドワークの方法や「小伝統」への着目などあらゆる面で、人類学は歴史学を全面的に批判している(批判の対象は、著者自身も批判する「素朴実在論」に立つ歴史学だけでないように感じる)。
著者も言う通り、「動かない事実」を伝える「構造史」の史料(たとえば統計データ)ですら、作られ方や記録のされ方には「ゆがみ」がつきまとう。(日本以外の?)非西洋世界では、西洋世界の基準に従う限り、「ゆがみ」はより大きい。まして著者の言う「事件史」や「文化史」になれば、わざわざポストモダンを持ち出すまでもなく、その独自の「枠組み」や「論理」を掘り下げて理解しないと、まともに史料が理解できないのである。それはしばしば、歴史学で通常言われる「史料批判」の域を越える(その結果、「東南アジアに歴史はない」「アフリカに歴史はない」などという馬鹿な話になる)。そうした世界では、やはり歴史学は人類学より遅れていると言わざるをえない。
人類学そのものが現在、学問として行き詰まっているのではないかというのは別の問題である。入門書や授業の巧みさも含め、人類学とくに歴史人類学の「脅威」はとうてい無視できない。

反対側からは「歴史社会学」が攻めてくる。「実証」にこだわる純粋な歴史学者にはできなかった(?)世界システム論が、歴史社会学者ウオーラーステインによって提起されたことは--そもそもマルクスもウエーバーも歴史学者ではないし--深刻な問題だと、私は以前から考えている。要するに歴史学者は、近代西洋社会と違った社会の独自の(ローカルな)論理もわからなければ、近代国民国家を越えた「世界」を論じることもできない、まったく無能な人々ではないか、ということになりかねないのである。

2.著者によれば、言語論的転回や物語り論は、素朴実在論という、「歴史学のなかの出来の悪い部分」をもっぱら攻撃している。上のようにそれだけでは済まないと思うのだが、たしかにそういう「敵の出来の悪い部分をやっつけて鬼の首を取ったように自慢する」「それで相手の良質な部分まで含めて全否定する」やり口は、「相手の言い分をねじまげて(でっちあげて)おいて、それを論破する」方法と並んで、どこにでも見られる。自分もそれをやらかしていないか、反省が必要である。「日本軍は悪いことをしていない」という議論なども、「これこれの勢力の陰謀」だという話にすりかえるのでなければ、たいていは「悪いことをした」という側の議論の安っぽいやつに含まれる誤りを叩いて事実そのものをなかったことにする方法であろう。

同時に、リーダーがいくらそれ(この場合は素朴実在論)を批判しても、「できの悪い部分」が大量かつ構造的に生み出されるような仕組みがもしあるならば、そういう学問全体の責任が問われるだろう。歴史学がそうなっていないか、これも真剣な反省がなされねばならない。
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ダオ・チーラン

Author:ダオ・チーラン
ヒツジ年生まれで写真のニワトリに深い意味はない。横浜で生まれ育った関東人だが、大学入学後現在まで関西で暮らしている。
本業は歴史学者で、専門は中・近世のベトナム史、海域アジア史、歴史学の評論・解説など。
趣味はパ・リーグを中心としたスポーツ、鉄道ほか。
このブログの意見はすべて筆者個人のものであり、いかなる組織にも関係ありません。

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