滅びるものなら滅びてしまえ?

「丸山真男をひっぱたきたい」という著作が話題になったことがあった。
絶望的な状況におかれた人々にとって、安全な場所から「良心的」「啓蒙的」な言論を展開する連中が許せない、いっそ戦争にでもなって、滅びるものならすべてが滅びてしまえばいい、という心情を示したものと理解している。

性急な「改革」を主張する指導者、格差社会にあえぎながらそれを熱烈に支持する市民などにも、この種の心情はしばしばうかがえる。「苦労してのし上がった」大阪市長さんもそうなのかもしれない。自分が置かれてきた絶望的な状況を変えるには、このぐらいしなければだめだ、「多数派」や「良識派」がそれを受け入れないならいっそ、みんなでともに滅びよう。

戦時中に軍国主義に協力した女性運動、部落解放運動などのリーダーたちにも、同じ発想があったと私は想像している。

ベトナム史・東南アジア史の専門家としての私には、こういう発想そのものは痛いほどわかる。
このブログで再三取り上げたリーバーマンは、その大著の冒頭で、「世界史」を論ずる人々が東南アジアを「系統的に無視してきた」ことを告発している。それでも、英語圏の学術誌では、東南アジア専門でない学者がリーバーマン(やその前のアンソニー・リードの「交易の時代の東南アジア」)の書評を書く。

日本ではそういうことは滅多にない。グローバルヒストリーの専門家はまだいい。「日本史」「中国史」「西洋史」など特定地域の専門家は、「港市国家論」「想像の共同体論」などモデルや概念の借用ぐらいはしても、ほとんど東南アジアの歴史の流れや事実そのものを知ろうとはしない。
それはもちろん悪意によるものではない。悪意でないからよけいに許せない。現在はいちおうのレベルの概説も事典も日本語で書かれたものがあるのに、なぜ基礎的な勉強ぐらいしないのだ。こんな歴史学など、滅びてもいい。

性格に相当難のある私も、子供の親になってしまった以上、「みんなで滅びよう」という政治に賛成するわけにはいかない。
同様に、歴史学を愛してしまった私は、蟷螂の斧を振り上げて歴史学と歴史教育を守ろうとしているが、それは「東南アジアやアフリカを無視する」歴史学と歴史教育を守ろうとしているのではない。そんなものは「大学改革」の波に呑まれて消えてしまえばいい? 前近代史や文化については「東南アジアのとの字も出てこない」かつての知識人の「教養」もしかり。

一昨日のKさんとの長電話では、こんなことも話した。暴言多謝。

この前の寒波のときから、足のしもやけが治らない。これも老化のあらわれか?



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プロフィール

ダオ・チーラン

Author:ダオ・チーラン
ヒツジ年生まれで写真のニワトリに深い意味はない。横浜で生まれ育った関東人だが、大学入学後現在まで関西で暮らしている。
本業は歴史学者で、専門は中・近世のベトナム史、海域アジア史、歴史学の評論・解説など。
趣味はパ・リーグを中心としたスポーツ、鉄道ほか。
このブログの意見はすべて筆者個人のものであり、いかなる組織にも関係ありません。

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