平清盛

大河ドラマに兵庫県知事が文句をつけたとかで話題になっている。
たしかに最初のほうの画面は、昔とはずいぶん感じがちがう。今風の作りなのだろう。

それより気になったのは、白河法皇はひたすら怪物(武家政権以前の旧体制を象徴する??)、院はともかくその他の公家から見ても武士は下に扱われている(ように私には見えた)、という2点である。現在の日本中世史研究が示すイメージは、ずいぶん違う。実教出版を筆頭に、高校教科書の記述も変化している(阪大で平雅行先生の講義を聴いた方はご存じのことだが)。私の理解が間違っていなければ、

1.日本の「中世」は鎌倉幕府や武士階級、(武士の)領主制ではなく、院政および荘園制とともに始まったというのが、現在の学界の通説である。古代と何が違うかというと:
1-1.院政から南北朝までの「中世前期」には、機能しなくなった律令官制のそれぞれの職掌を世襲的に請け負う仕組みが一般化する。請負の代価として、一般的には土地(所有権または土地からの収益を受け取る権利)が与えられたが、その土地は大きくは荘園と公領に区分され(荘園公領制)、ほとんどの土地では、所有権や収益を受け取る権利が、複数の個人や集団の間で、重層的に設定されていた。
1.2.請負の主体として、成員の結びつきがゆるやかでタテの系譜観念も強くない古代の「氏」にかわり、緊密な結びつきをもつ日本独特の「家」が、支配階級の間でしだいに一般化した(中国の宗族などと比べると、父系親族集団の結びつきは弱い。他方、職能と財産の直系的な世襲がきわめて重視され、夫婦の結びつきも強い)。律令制のもとで特定の私有財産というものをもたなかった天皇も、院政のもとで膨大な荘園を所有し世襲したことから、「天皇家」が成立する。同様に「藤原氏」もゆるやかな氏の結合から複数の家へとまとまりのありかたが変化し、「摂関家」に変身する(天皇家の成立は天皇制の成立よりずっと遅く、摂関家の成立も摂関制の全盛期より後!)。

2.武士の起源は「軍事貴族(世襲化が進んだ朝廷の官僚機構の中で、文官でなく軍事を専門に世襲した家柄)」と、「田舎の領主=暴力団」の2つあり、両者がしだいに結びついた。源氏や平家は本来前者であり、上級貴族の立派な一部分である(藤原氏に対抗するために院が伊勢平氏を利用したのは事実だが)。

3.中世前期の日本の政権は、多くの有力な集団(権門)が、大きく言えば文治(公家)、軍事・警察(武家)、宗教(寺社)の機能を分担しながら、ゆるやかに連合した状態であった(権門体制論)。その中心は院(その権力が律令の規定に直接制約されない点で征夷大将軍と同じ)から武家に徐々に移行した。鎌倉幕府樹立や承久の変で武家が全国を支配したわけではない。

こんなところだろうか。

以上からは脱線だが、平氏=旧体制、源氏=進歩的というのは、「勝者が作った史観」である。高橋昌明教授は、平氏政権を「六波羅幕府」と呼ぶことを提唱している。
また、これも平雅行先生(平氏の子孫ではないらしい)の受け売りだが、明治以降の源氏進歩史観の背景にあるのは、貴族の退廃を強調する歴代武家政権とくに江戸幕府の歴史像だけではない。朝廷・公家つまり西の古い文弱な勢力を、武士つまり東からあらわれた清新で強力な新勢力が圧倒するというストーリーは、西の中国に代わり東アジアの支配者になろうという大日本帝国の願望にぴったりだったのだそうだ。中国を文弱、日本を武威の国として対比した豊臣秀吉のロジックと同じである。院政や平氏は、こういう「国際戦略」のなかでおとしめられてきたのである。

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ダオ・チーラン

Author:ダオ・チーラン
ヒツジ年生まれで写真のニワトリに深い意味はない。横浜で生まれ育った関東人だが、大学入学後現在まで関西で暮らしている。
本業は歴史学者で、専門は中・近世のベトナム史、海域アジア史、歴史学の評論・解説など。
趣味はパ・リーグを中心としたスポーツ、鉄道ほか。
このブログの意見はすべて筆者個人のものであり、いかなる組織にも関係ありません。

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