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社会運動は「わがまま」「自己満足」?

今朝の毎日新聞「論点 若者と街頭の政治」は香港、韓国や台湾と違って、なぜ日本では若者の政治・社会運動が活発化しないのかについて三者の意見を載せる。

五野井郁夫氏の1980年代以来の歴史分析は基本として押さえるべきだろう。運動を潰す側の圧力と、運動の担い手側の不作為(旧態依然で自己満足的な--最初はそうではなかったのだが--運動形態の刷新を怠ったこと)、さらに文化的な変容の相乗効果が、現在の若者に「ゼロどころかマイナスからしか社会運動を始められない」状況をもたらしたのだということ。文化面ではポストモダンの文学や思想が、欧米では反政治的な潮流とはとらえられなかったが、日本では政治や社会問題に関わらない理由付けや、単なる消費社会肯定論として広まった」ことを指す(歴史学における「社会史」や「言語論的展開」も同じだろう--かつてのマルクス主義ですら、日本では運動より学問ないし知的遊戯として広まった側面が強いとされる)。

富永京子氏は、今の若者が社会や政治にモノ申すことを「わがまま」「自己満足」などとネガティブにとらえる傾向が強いとする。背景にあるのは「偏っている」と見られることを極度に恐れる心理だというから、社会批判の言説に対して、「社会が(政権が、企業が)悪いと認めててしまったら、そこに必死で適応しようとしている自分の努力を否定することになる」という、私などには珍論としかいえない論理と同根なのだろう。「失敗を異常に恐れ、失敗するぐらいなら行動しないことを選ぶ」日本の国民性があるにしても、これで近代民主主義が守れたら奇跡に思える。

これがある種の福祉を強力に保証する社会・政権(最近の江戸時代像は、世界トップレベルの重税の一方で農民その他の再生産を保証する仕組みも中世日本や同時代の他国と比べればずっとよく整えられた「福祉国家」状態だったという理解が主流のようだ)のもとであれば「お上に逆らうのはもってのほか」「これでうまく行かなければ自己責任」などの考えが一般化しても無理はないが(與那覇潤氏の江戸時代像もこれに近いだろう)、現代日本の社会や政権はそういう保証をしてるかね。

富永氏は今の若者が政治や社会に無関心なのではないが、「キャンパスで運動を見たことがない」、「シラケ世代」の親たちも冷笑的で、「関心を持ちたいが持ち方を誰も教えてくれない」という問題にも言及している。富永氏は学校の授業になると「勉強した人にしかできない」と考える若者が増えることも懸念している。歴史総合などの教育改革が「一部エリートにしかついていけない」という懸念と同じことで、「普通に出来る(コロンブスの卵の)社会運動」のやり方」を広げることが変化の鍵になるだろう。


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ダオ・チーラン

Author:ダオ・チーラン
ヒツジ年生まれで写真のニワトリに深い意味はない。横浜で生まれ育った関東人だが、大学入学後現在まで関西で暮らしている。
本業は歴史学者で、専門は中・近世のベトナム史、海域アジア史、歴史学の評論・解説など。
趣味はパ・リーグを中心としたスポーツ、鉄道ほか。
このブログの意見はすべて筆者個人のものであり、いかなる組織にも関係ありません。

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