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南北ベトナムの人口

会の案内ばかりでは読んでくださる方に申し訳ないので、たまには独自の記事を書こう。

友人のFBのスレッドへの書き込みで、ベトナム戦争末期の南北の人口は南(ベトナム共和国)の方が圧倒的に多かったという説を見た。小国が大国を侵略・占領したと言いたいのかどうかはわからないが、南が北よりはるかに人口が多かったなんて歴史的に見てありえないので、気になって調べてみた。ウィキペディアでは確かにそうなっている。ただし南は70年に1833万、73年に1937万と年代を明記してあるが、北は年代なしに1300万としか書いてない。上記スレッドの書き込みをされた方によると、「1974年の時点では南は約1900万人、北は約1300万人」というのが「国連加盟国」のデータとて公表されており、それが事実だと信じておられるらしいのだが、そこには国連が公表したデータはすべて真実だとか(逆に国連非加盟国の統計は信用できない?)、国連が人口調査をしているとか、何かの思い違いがありそうだ。ウィキペディアやこの方の北ベトナム人口がどの出版物にもとづくか不明だが、ベトナム語がまともにできる専門家が日本を含む諸外国にはいくらも存在しなかったベトナム戦争期(東京外語大のベトナム語専攻の創立は1964年だそうだ)には、マスコミ報道でも出版物でも、トンチンカンなものはいくらでもあった。

もう一点、この方は当時も現在も南部が経済力で北部を上回る事実や、サイゴン(ホーチミン市)がベトナム最大の都市である事実から「南部の方が人口も多いに決まっている」と思われた可能性がある。しかし、ドイモイ前のベトナムは以前のバングラデシュやタイ、改革開放前の中国やなどと同じで、貧しい農村地帯に人口の圧倒的多数が暮らしていたのだ。つまり経済(商工業)の中心が人口分布の中心でもあるに決まっているという「現代日本の常識」は通用しない

さて、南北の人口比を理解するには、まずベトナムの歴史を知らねばならない。もともとベトナム人(キン族)が住んでいた北部とくに紅河デルタは早くから人口過剰と土地不足に苦しみ、それが「南進」つまり南方への領土拡大の原動力となってきたとよく言われる。他方、チャンパーやカンボジアの支配下にあった中部や狭い意味の南部(ホーチミン市を中心とする東南部とメコンデルタ)はもともと北部と比べれば圧倒的に人口が少なかった。阮氏の支配下で徐々に開発が進んだが、本格的な開発によって北部に迫る人口をもつようになるのは、仏領時代以後のことである。

 以上を押さえた上で、とりあえず手許にあるデータを調べてみる。
(1)フランスによる1936年の推計:トンキン870万人、アンナン565.5万人、コーチシナ461.6万人、合計約1900万人(元の統計以外に、アガール著、宮島・土居訳『仏領印度支那』などに引用されて広く知られている。しかし独立後のテータから見て、実際はもっと多かったという見方もある)。南北ベトナム分立時代の「北部」は仏領時代のトンキン以外に、アンナンに属した現在のタインホア、ゲアン、ハーティン、クアンビン各省とクアンチ省の一部を含む。当時の省別人口は手許ではわからないのだが、ハノイで1970年に発行された『ベトナム民主共和国統計年鑑 15年間の社会主義経済建設』55ページには、仏領時代にさかのぼって南北の人口を比較した表があり、1936年は北部が1094.7万人、南部が802.5万人としてある。
(2)上記の統計年鑑の同じページによれば、北部(民主共和国)の1954年人口は1302.9万人、55年人口は1357.4万人とある。ウィキペディアや上の方が持ち出す1300万というのは、ジュネーブ協定で南北の領土が分けられた際の北部の人口に違いない(協定をめぐる交渉では、南北双方の面積や人口も問題にされたに違いないので、それが外部に報道されることも多かっただろう)。同年の南の人口はこの年鑑では1080.6万人とされている。
(3)南北が対立している時代に両方が「産めよ増やせよ」をしたことはよく知られている。合計特殊出生率(一人の女性が一生に産む子供の数)は5~6人台に達した。北部の人口は膨大な戦争による損失にもかかわらず、1960年に1610.0万人、1972年には2158.2万人と増え続けている(民主共和国統計年鑑1973年版)。南部も同様にどんどん増えた。南部の場合、解放戦線側が支配した地域の人口が数えられたかどうか疑問なので、南ベトナム政府が発表した数字より実際の人口が多かったことは十分考えられる。南北正式統一がおこなわれた1976年の推計全国人口は4916.0万とされ、その前後から多数の難民が流出したにもかかわらず、1980年の全国人口は5372.2万人と発表される(いずれもハノイの統計総局が1990年に発行した『ベトナム社会主義共和国統計データ1976-1989』による)。1980年統計の省別数値(統計総局1981年発行『ベトナム社会主義共和国統計データ』)から計算すると、ビンチティエン省(当時)の人口が17度線の南北にどのように分かれていたかが不明だが、仮に3分の1を17度線以北とすると、北が2664.0万人、南が2707.2万人と南の方がわずかに多くなる(1000人単位の表示なので総数と誤差が出る)。最後に2006年版の統計年鑑に出ている2000年の地方別・省別人口を見ると、総人口7763.54万人のうち、北部2826.00万人、中部2096.39万人、南部2841.15万人となっており、同様にクアンチ省の数値を北1対南4で按分すると、17度線以北は3686.31万人、以南は4077.26万人となり(100人のケタで誤差あり)、南の方が人口増加率が高いことがわかる。なお1980年、2000年のデータは、本当は1979年、1999年などの国勢調査データの方がいいのだが、手許ですぐ出てくる切りのいい年のデータということでご勘弁いただきたい。
これらの数値について、完全な信頼性はないが、しかし「大幅に違う」という話は国連人口機関などの国際機関や西側諸国からも出ていないと思われるので、「ハノイ側の統計だけ使っているのでお前の意見は信用できない」という論難は受け入れられない。

というようなことで、ベトナム戦争前後の南北の人口比については、仏領時代にも北部が圧倒的に多かったが、南北ベトナムが分立した時代に南も急速に人口が増え、統一後にはついに北を追い抜いた、と理解するのが適切だろう。統一後の南の増加については、経済力が北より大きいこと、北で施行した「2人っ子政策」が南では全然守られなかったことなどの要因が考えられる。もっとも現在ではベトナムも合計特殊出生率は1.9人台で、少子高齢化社会が目前に来ているが。

蛇足だが、上記のようにベトナム戦争前後の日本のベトナム報道や出版は、まだ非常にレベルが低かった。そのうえベトナム戦争や共産党政権の評価についてはどうしてもイデオロギーを背負った記述になりがちである、そういう点を考慮しても、日本語版ウィキペディアのレベルの低さはなんとかならんものだろうか。オタク的に面白い記述はあるが、全体の書き方が英語版やベトナム語版に比べて素人くさい。
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ダオ・チーラン

Author:ダオ・チーラン
ヒツジ年生まれで写真のニワトリに深い意味はない。横浜で生まれ育った関東人だが、大学入学後現在まで関西で暮らしている。
本業は歴史学者で、専門は中・近世のベトナム史、海域アジア史、歴史学の評論・解説など。
趣味はパ・リーグを中心としたスポーツ、鉄道ほか。
このブログの意見はすべて筆者個人のものであり、いかなる組織にも関係ありません。

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