世界史との対話

長野の小川幸司先生から『世界史との対話-70時間の歴史批評(上)』(地歴社刊)を頂戴した。
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ご自身の高校や市民講座での講義録をもとに、「70時間」つまり世界史Aや今後設けられるかもしれない歴史基礎で、自分ならこういう講義をしたい、という内容で、この上巻は第24講までで人類の誕生からジャンヌ・ダルクと百年戦争までを収録している(2009年度歴史学研究会大会の特設部会「社会科世界史60年」で話題を呼んだ報告「苦役への道は世界史教師によってしきつめられている」を、「世界史教育のありかたを考える」というタイトルを付し「苦役への道...」を副題にしたうえで、補論として収録されている)。このあと、中巻・下巻で70講まで出される由である。

まだ中身を読んでいないのだが、「はじめに」に書かれた2つの点におおいに共感した。
第一は、すべての時代と地域を網羅しているわけではないが、「私が考える世界史は、時間軸では、「宇宙の誕生」から始まり、自分が生きている「いま、ここ」を終点とする。そして空間軸においては、ヨーロッパやアジア、アフリカ、アメリカなどを広く見渡しながら、私たちが生きる「日本列島」を必ず視野のなかに入れる」という枠組みの設定。
第二は、「世界史の「知」の三層構造が見えるようにする」という考え方である。第一は事件・事実の列挙、第二はその「解釈」の層、とここまではだれでも考える(ただし、高校世界史教科書が第一の層に集中し、第二の層はときどきふれるだけ、しかも「断定調や断片的論理」が普通、という状況をおよそ「人文科学」にふさわしくないとして、研究史や史料、研究に必要な言語なども重視される点も、我が意を得たりの思いである)。加えて先生は、第三の層として「歴史を素材にして人間のありかたや政治のありかた、ひいては自分の生き方について「歴史批評」をおこなう、という知のいとなみ」をあげられる。これは、自分の生き方や社会・政治のありかたを、考え判断し選択できる市民の育成に、不可欠な層であろう。昨日のCSCD科目「歴史の構築学」のディスカッションでも、「あったらいい高校の歴史の授業」の案として、歴史上の大きな分岐点を示し「君が当時の指導者や庶民だったらどうするか」議論させる授業というのが出ていた。

次に、今日受け取った『歴史評論』に「世界史論の現在」という特集が載っている。
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これもきちんと読まねばいけないのだが、グローバルヒストリーを取り上げた2本をぱらぱらめくると、従来の歴史学と歴史教育の立場からの「護教論」的な議論に見える。私はグローバルヒストリーのすべてに賛成ではないし、特にそれが日本賛美や近代化賛美に使われやすい部分、民衆の立場を十分組み込めていない点は問題だと認識しているが、だからといっていまだにこんな揚げ足取りをしていていいのか、と疑問に思う。自分の陣営については先進的な理論や実践だけをあげ、グローバルヒストリーについては質の悪い部分を批判する、というやり方が気になる。グローバルヒストリー批判を免罪符として狭い研究や教育しかしようとしない「サイレント・マジョリティ」をどう動かすか、という議論は禁じ手なのだろうか?

もう1冊、歴史学ではないのだが、『世界の食に学ぶ』という文化人類学の本をいただいた。
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吉本康子さんの「移民・難民と食-阪神大震災後の神戸定住のベトナム人」には、「温かいご飯にこだわる」「「豚の文化」とベトナム」「食をめぐる移民の経験」など、ベトナムを含むアジアと交流するのに大事なことがうまく書かれており、ベトナム人との交流に関心を持つ人の必読文献だろう。

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プロフィール

ダオ・チーラン

Author:ダオ・チーラン
ヒツジ年生まれで写真のニワトリに深い意味はない。横浜で生まれ育った関東人だが、大学入学後現在まで関西で暮らしている。
本業は歴史学者で、専門は中・近世のベトナム史、海域アジア史、歴史学の評論・解説など。
趣味はパ・リーグを中心としたスポーツ、鉄道ほか。
このブログの意見はすべて筆者個人のものであり、いかなる組織にも関係ありません。

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