覚えることと考えることの関係

中学時代に国語の教科書で習って以来私が好んでいる論語の言葉に、「学びて思わざればすなわちくらく、思いて学ばざればすなわちあやうし」というのがある。覚えただけで考えなければわかっていることにならない、考えるだけで覚えなければそれはアブナイ」といった意味だろう。

この場合、「学ぶ」と「思う」は車の両輪であって、どちらが先とかどちらが基本でどちらが応用という関係にはないだろう。

ところが日本の教育は、「型を覚え込む」ことを優先的に先にすべき基本として扱い、「その型の背後にある心(考え方)」を身につけるのを「後回し」にすることが多い。芸事や武道でもスポーツや学校教育でも、たいていそうだ。そうするとたいていの場合、「心」を理解する訓練が受けられるのは、「型」を完璧に身につけた少数の優秀者だけ、ということになる。

それでいいのだろうか。

「はねるはねない、出る出ない」を完璧に覚えた者しか、漢字といううふしぎふしぎな(とても面白い)文字の特質を考える機会をあたえられない。
中国の王朝名を全部暗記した者しか、中国史の世にもケッタイな(困った点も多いがしかしこれも知的興奮をそそる)特徴を考える機会を与えられない。
記号・語句の記入やマークシートの試験が完璧にできる者にしか論述式の訓練をしない。

それでいいのだろうか。

プロの養成ならそれでもいいかもしれないが、全員が学者になどならない初等・中等教育がそれでいいのだろうか。

少数のエリート以外は右肩上がりなど決まった世の中の仕組みに従って働いていればいい時代ならそれでもいいかもしれないが、21世紀にそれでいいのだろうか。

少数の支配者の命令にみんなが従う社会ならそれでもいいかもしれないが、民主主義社会にそれでいいのだろうか。

外国人との接触など限られた人間にしか機会がなかった時代ならそれでもよかったかもしれないが、国内の、それも地方社会が外国人労働者や観光客なしには成り立たない時代に、それでいいのだろうか。

プロの養成でも、ベンチのサインで大部分のプレーをコントロールできる野球ならまだありかもしれないが、それが不可能なサッカーやラグビーの選手の養成に、そういうことをやっていていいのだろうか。

ここまで書いても、まだ反論はあるだろう。
「そんなことを言っても子供は強制しなければ勉強などしない」
そうかもしれない。だがそれなら、「覚えること」だけでなく「考えること」も強制しようではないか。

野球で一流でない外国人打者を「ボールになる変化球で三振させる」ことはは並みの投手もできるが、サッカーの日本代表はトップクラスの選手でも国際試合になると(セットプレーは別として)永遠に「決定力不足」に泣かされ続ける、それは「型」を先にする日本的教育の光と影を明瞭に示すものではないのだろうか。




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ダオ・チーラン

Author:ダオ・チーラン
ヒツジ年生まれで写真のニワトリに深い意味はない。横浜で生まれ育った関東人だが、大学入学後現在まで関西で暮らしている。
本業は歴史学者で、専門は中・近世のベトナム史、海域アジア史、歴史学の評論・解説など。
趣味はパ・リーグを中心としたスポーツ、鉄道ほか。
このブログの意見はすべて筆者個人のものであり、いかなる組織にも関係ありません。

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