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自分はいまどういう土俵の上で歴史を語っているのかを言語化して考える(説明する)必要

歴史とか哲学は経済学や政治学と違って対象も方法も明確に定義できない。だからこそ、自分がいまどういう土俵の上で歴史を語って(研究して)いるのかを考えられない(説明できない)研究者や教育者は失格ということになるはずだ。

同じことで、歴史の教員はよく「歴史にイフはない」と言うが、歴史小説との区別のためにはそれでよくても、「シミュレーションの訓練としての歴史教育」「多様な選択肢の中での選択・決断を教える歴史教育」を求められたときに、「歴史にイフはない」と言い続けるのだろうか?
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Re: No title

すみません。コメントに気づくのが遅れました。
おまけにパソコンに事故があって1回書いた返事が消えました(涙)。

研究者志望であれば自分で考えていただきたいところですが、ヒントを出せばこういうことです。
鎌倉幕府成立年をめぐって論争があり教科書記述も最近は変わったという話はご存じと思いますが、1180年、83年、85年、89年、90年、92年などの諸説を単純に「どれが正しいか」と比べられるでしょうか? ところが経験が少なく理屈でものを考えるのが苦手な学部生は、しばしばそれを単純に比べようとします。
もう少し勉強している学生は、それは「幕府成立の定義が違う」ということを理解します。でも、定義が違うというのはどういうことでしょう。
そう考えると、定義の背後にある歴史観(パラダイム)が違うのだという話になります。数学や物理で言えばそれは、2進法か10進法か、ユークリッド幾何か非ユークリッド幾何か、ニュートン力学か相対性理論か、といった違いに対応します。そして2進法と10進法は別に「どちらが正しい」という問題ではありませんね。しかしコンピューターを理解するには2進法の理解が必要です。同じ意味で、歴史の「事実」を理解するのも人間は「歴史観」の助けなしにはできません。しかし「歴史観」には複数あります。同じ事象を扱っても歴史観によって見える「事実」が違います(それは「正しい歴史などないから、みんな自分に都合の良い歴史を語るまでだ」という話とは別です)。それぞれが語る「事実」を理解し、自分がよりよい説を出せるためにも、それぞれの事実や解釈がどんな歴史観のもとで語られているかを見分ける必要があるということです。
どうでしょうか。すぐには実感できないかもしれませんが、考える助けになれば幸いです。



> いつもブログを読ませていただいております。
>
> 先ほど更新された記事ですが、「自分がいまどういう土俵の上で歴史を語って(研究して)いるのかを考えられない(説明できない)」というのは、どういうことでしょうか。
>
> 具体的に教えていただけたら、幸いです。
プロフィール

ダオ・チーラン

Author:ダオ・チーラン
ヒツジ年生まれで写真のニワトリに深い意味はない。横浜で生まれ育った関東人だが、大学入学後現在まで関西で暮らしている。
本業は歴史学者で、専門は中・近世のベトナム史、海域アジア史、歴史学の評論・解説など。
趣味はパ・リーグを中心としたスポーツ、鉄道ほか。
このブログの意見はすべて筆者個人のものであり、いかなる組織にも関係ありません。

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