教員に必要な二つの歴史的思考力

いわゆる歴史的思考力については何度も色々なことを書いてきたが、史料の読み取り、時系列に沿った理解などという具体的な力の土台になるものとして
1)歴史的事象の即自的な把握・描写でなく、それを要約し他の事象とつないだり比べたりできるかたちに抽象化・一般化して考える/語る能力
2)そこではどういう次元でどういう概念や論理の操作が必要かを言語化して認識する/語る能力

の2つの能力が教える側に必要なのではないかと、このところ考えている。これは人文学・社会科学などの共通基盤だと言える部分もあるが(特に2)、しかし歴史独自の部分もあると思われる。両者をつなぐ役割をもつ能力の定義だと思われる。

第一の能力が必要なのは、通常の歴史学の考え方によれば、すべての歴史的事象は個別性・一回性を帯びるので、それ自体では他の事象と「つなぐ」「くらべる」はできないはずだからである。またそれができないと、他の学問や他の分野の知識人との他流試合もできない。
「そんなややこしいことを言わなくても、出来事の因果関係や影響関係は論じられる? 甘い。
たとえばある人が胃ガンの手術から約2年後のある日のある時刻に死んだとする。「かれはなぜ死んだのか」という問いに対しては、状況や場によっていろいろな答えができるので、それぞれふさわしい形で一般化された答えを作らねばならない。
「かれはその時間に心臓が止まったので死んだ」という答えは、間違いではないが通常は意味がない。
「かれはが再発してガンで死んだ」はたいていの場合に有効な説明だが、同じ胃ガンで助かった人とくらべる場合には、「かれのガンは抗がん剤がきかなかった」「手術が失敗した」「他の臓器に転移した」などの理由を付け加えねばならない。「かれは食生活がに問題があって不治のガンにかかった」「かれはガンの家系だった」などの説明の方が適切な場合もあるだろう。それらの答えのどれもが、かれの死という事象を違ったかたちで要約し、なんらかのかたちで他人の死とくらべているのだ。

第二の能力は、「専門研究者」(スポーツ選手や芸術家、料理人などの仲間)には必須ではないだろう。自分がなにをしているかの言語化などできなくても、第一の能力を獲得しすぐれた論文を書く達人は、神業をやってのける選手やシェフを同様に、いくらでもいる。しかし「教員」には必須な能力だと信じる・
なぜなら、「優れた作品の提示」と「史料や研究仲間などの恵まれた環境の提供」だけで教育ができるのは、(特にカネや時間が限られている場合には)一部のエリート相手だけろう。野球の指導で「なんでもいいからただ走り込め」「猛練習あるのみ」などとならないためには、「こういうパワーを身につけるにはここの筋肉をこうやって鍛える」「この球を投げるにはボールの握りより腕の振りのトレーニングが有効だ」など具体的な理屈や方法の提示が必要である。
同様に高校や普通の大学の歴史教育が「とにかくたくさん覚えろ」「ただただ史料を読み込め」などとならないためには、それぞれの場や課題について何をどう考えたらいいのかを「こういう事象の理解には正負両面を見なければならない」「この変化は速度でなく加速度に注目しないと理解できない」など、どういうふうに頭を使ったらいいかを教えねばならない。

いや、「教える」のでなく「自分で学ばせる」のが教育だというならそれでもよい。教師側は学習者の内部でそういう頭の使い方ができているかどうかを評価し、不十分であればそれを促進するような働きかけをしなければならないというだけのことである。それには普通は、教える側の頭の中で言語化されていないといけないだろう。
関連記事
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

ダオ・チーラン

Author:ダオ・チーラン
ヒツジ年生まれで写真のニワトリに深い意味はない。横浜で生まれ育った関東人だが、大学入学後現在まで関西で暮らしている。
本業は歴史学者で、専門は中・近世のベトナム史、海域アジア史、歴史学の評論・解説など。
趣味はパ・リーグを中心としたスポーツ、鉄道ほか。
このブログの意見はすべて筆者個人のものであり、いかなる組織にも関係ありません。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
アクセス・カウンター
あなたは
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR