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日本語の文章の読み方(編集済み)

このブログでも他の著作でも、歴史教育がうまくいかない理由のひとつに、教員や研究者の側の日本語を読んだり書いたりする訓練の不十分さをたびたびあげてきた。

それに関連して、ここまでの『市民のための世界史』合評会シリーズのなかで気づいたことがひとつある。そこで考えると、合評会以外でも同じようなことがあった気がする。

たとえば「暗記事項が多すぎる」としつこく発言してきたが、それに対して「暗記はいっさいいらないと言っている」と曲解する人がすごくよくいる。そういう曲解のうえで「なんだ、人名や事件名はいらないと言っておいて概念や理論を暗記しろと言ってるじゃないか」などと突っ込んできたりする。

その他は実際の例を出すと差し障りもありそうだから、まったく別の文例をあげる。
たとえば国連でなにかの決定をおこなった。それについて「この決定の背後にアメリカの影響力があった」と教科書に書くと、「ロシアの影響力を否定したのはおかしい」と批判してくる人がいる。アメリカ以外の影響力はなかったと書いたわけではないのだが。
また、ある地域の地理を述べて「この地域には大砂漠がある」と書くと、「この地域に森林があることを無視している」と突っ込んでくる人がいる。「砂漠以外はなにもない」と書いたわけではないのだが。

どうも、歴史教科書における「文の主題(国連の決定、ある地域の地理)」と「その説明」の間は、必ず一対一で対応しているという思い込みがあるんじゃないかと思われる。英語学習を始めたばかりの中学生が、英単語の意味は日本語の単語と一対一対応すると思っているのと似ている気もする。しかし日本語の文法はそういうものではない。「この決定の背後にはアメリカの影響力だけがあった」「○○地域には大砂漠しかない」など、一対一対応を明示したければ限定をあらわす言葉を補わなければならないのが普通だろう。それなのに上のような曲解をさせるのは、数学でいう「命題の真偽」のようなトレーニングの不足でなければ、主題とその説明が一対一で対応していないと答えられない「暗記入試」のせいだろう。後者だとすれば、歴史の教育と入試は、日本人の日本語読解能力を低める弊害を垂れ流していることになる。


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プロフィール

ダオ・チーラン

Author:ダオ・チーラン
ヒツジ年生まれで写真のニワトリに深い意味はない。横浜で生まれ育った関東人だが、大学入学後現在まで関西で暮らしている。
本業は歴史学者で、専門は中・近世のベトナム史、海域アジア史、歴史学の評論・解説など。
趣味はパ・リーグを中心としたスポーツ、鉄道ほか。
このブログの意見はすべて筆者個人のものであり、いかなる組織にも関係ありません。

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