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用語の暗記と理論の暗記(再編集済み)

土曜日の歴教研での『市民のための世界史』についての議論の中で、用語を減らすはわかるが代わりに概念・理論用語の暗記が増えることになるのではないか、という疑問が提起された。一部重なる問題として、これまでの論述式の入試の出題について、因果関係などの説明を用語の代わりに暗記させることになるだけだという批判を聞いたこともある。

1.われわれは用語・事項の暗記を全否定しているか。
そんなことはない。化学の勉強で元素の名前は暗記するものだろう。炭素をなぜ炭素と呼ぶか、酸素をなぜ酸素と呼ぶかまで「理解」する必要はなかろう。生物でも似たことがあるだろう。だが化学や生物で、化合物や生物の名前をものすごく大量に覚えていたら学力が高いというだろうか。現在の歴史教育は、化学反応の式とパターン、生命現象の構造とパターンなどを抜きにして、ひたすら化合物や生物の名前を覚えさせる、小川幸司先生のいう「素朴な分類学」に陥っているから批判しているのだ。
また「理論の暗記」について、学習者が「この文中でそれとどれを暗記したらいいのだろう」という態度で学習していたら、どんな教科書があろうがなかろうが、すべてが暗記にしかならないだろう。他方、人名や事件名でも理論や概念でも、単語だけでなくその背後にある説明を理解しなければ意味がないのは同じである。ただし前からわざと挑発的に言っていることだが、用語・事項を暗記するのと説明の文章や理論を暗記するのでは質が違う。前者は論理抜きでもできるが、後者は最低でも「論理(語学の文型パターン、理系科目の公式に近い)を暗記する」ことにつながる。「人前で話をする」「文章を書く」などの能力をつけようと思ったら、「単語しか覚えていない」のと「文章を覚えている」のと、どちらが有利だろうか。

2.「財政軍事国家」「国民国家」「世界システム」などの概念・理論用語をわれわれが教科書に書く目的
少なくとも私は、歴史教育を市民教育や主権者教育の一環としてとらえている。つまり他人との討論や政治的意志決定をするのに必要な知識や考え方を身につけさせることである。それは「市民」「国民」「国家」「民主制」などなど抽象化された概念の助けなしにはできない(ただしどの概念にも、昨日述べたように時代や文脈による意味・用法の揺れやズレがある)。また一定範囲の「現代用語の基礎知識」がなければ、判断材料を集めることも他人との議論もできはしない。われわれはそういう概念や用語については政治経済や現代社会に任せておけ、という態度を取らない。それを歴史性を外して教えるだけではいけないことは、「権力者を縛るのが憲法だ」という見方に対して安倍首相が「それは絶対主義時代の考えで、今は違う」と反論していることからも明らかだろう。どの立場に立とうと、「民主主義ってなんだ」「立憲主義ってなんだ」と問う者は、それを歴史的に問わざるを得ない面が必ずあるのだ(私自身は安倍首相の考えは「完全に不適切」だと思うが、「100%間違い」だとは思わない)。そして歴史をよりよく理解しようとする新しい研究は、しばしばそれを凝縮した新しい概念や理論を創り出す。「国民国家」も「財政軍事国家」も「朝貢・冊封体制」も、そうやって出て来た概念・理論である。上手な説明が必要なことは言うまでもないが、そういう新しい言葉が(おおむね正確に)定着したとき、それは新しい歴史像が根付いたことを意味する。
われわれが教える外国語学部や国際公共政策コースの学生、他の学部でもビジネスマンや国際人を目ざす学生、そういう学生たちが最後に学ぶ歴史の授業かもしれない「市民のための世界史」で、こういう概念や用語を提示しておくことは、たくさんの人名や事件を知らせることより大事である(そうはいってもわれわれは人名や事件を全否定してはいない。その意味で、「百年戦争の記述委ジャンル・ダルクは不要では」という意見が出たのは意外だった。「エドワード黒太子」を教える必要はないと思うが、ジャンヌ・ダルクという名前とイメージを知らないと読めない文学や社会的文章がどれだけあるかを考えると、これは「クレオパトラ」などと同様に「現代用語の基礎知識」に入るのではないか)。

3.人名・事件と比べて概念・理論が違和感を持たれる理由
「人名や事件・年代は無色透明中立」「概念・理論は政治性を帯びる」、だから後者は高校歴史教育になじまない、という発想もよく聞かれる。だが人名・事件や年代も、その選択・配列・表記などにおいて無色透明中立ではありえないことは、戦争や植民地支配についてどちらの国から見るかという問題よりも、鎌倉幕府という呼称とその成立年(1192年もそれ以外のどの年を選んでも)がもつ強い政治性をあげるのが明快だろう。「特定の価値観を教え込むのでなく判断材料を提供し判断能力を養う教育」を「無色透明中立の教育」に直結するのは、論理的なレベルがかなり低い。必要な中立性というのは、違った意見の間のコミュニケーションを可能にし、相互の尊重を保証する中立性(むしろそれは「公正性」というべきか)である。それは、すべての「事実」も「概念・理論」もそれぞれの偏りや揺れをもつことを積極的に教えるところからしか生まれない。歴史教育がそれを政経や現代社会に押しつけてそこから「逃げる」ことは、許されないというのが私見である。
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No title

歴史教育について語る人々や歴史教員の一部には、「子供たちに特定の歴史観・価値観を押しつけるべきでない」という言葉を金科玉条にしておられる方々がいます。何かといえばすぐその台詞を吐きます。しかし、たいていの場合、それは「(私が賛成しかねる)特定の歴史観を押しつけるべきでない」と言っているにすぎないケースが多いように見受けられます。なかには歴史観を「紹介している」のと「押しつけている」ことの区別もついていない人もいます。

先生もおっしゃっているように、完全に中立で無色透明な事実のみで構成された歴史叙述など私は実現不可能だと思います。教科書に何を書くのかという取捨選択の時点で絶対に「特定の歴史観」が入ってしまいますし、よしんばそこをクリアしたとしても、授業をするさいに教師のもっている「特定の歴史観」が生徒に伝えられるのは避けられません。むしろ多様な歴史観があることを前提に、それらを比較して討論するような授業を作った方がよほど建設的だし、国際社会で意見も価値観も異なる人々と平和共存する力も育まれると思います。

ただし歴史(教科書)の叙述は「何でもあり」というわけでなく、1)事実立脚性と2)論理整合性という二つの条件をクリアする必要はあるでしょう。だから、私たちは「特定の歴史観を押し付けているから駄目」ではなく、「事実に即してないから駄目、論理の飛躍があるから駄目」といった形で教科書を批判すべきです。加えて中学や高校の教科書は3)生徒の発達段階に即しているか、という点も考慮に入れるべきでしょう。

「釈迦に説法」みたいなコメントになってしまい、申し訳ないです。
あとでもうひとつ、別のコメントします。

No title

『市民のための世界史』への感想と書評です。まずは素晴らしく面白かったとお伝えします。とくに「モンゴル」から「アジアの成熟」あたりにかけては、新しいことが分かりやすく書かれていて、なかみも興味深かったです。コラムもどれも読みやすく充実してました。

個人的に気になったのが、各章の最初と最後にある「問い」の効果です。まず「最初の問い」は読者が持っている従来の歴史イメージに疑いを喚起させ、これから語られる本文の新しい内容への道案内の役割を果たすもの、ということのようですが、この目的を達成するために「問い」という手法をとることは、あまり効果的だとは思えませんでした。普通に「大航海時代について、君たちは……だと考えているかもしれない。しかし近年の研究では--- ーーーだということが分かってきた。これからそのことを一緒に解き明かしてしていこう」みたいに「問い」ではない書き方をしたほうが、サインポストとして上手く機能するのではないかと思いました。

一方で「最後の方の問い」は、読者がその章の内容を主体的にまとめて、さらなる勉強へ進むための足掛かりとなるもの、と認識しました。こちらは「問い」という形式がふさわしいと思いますが、その「問い」がほとんどの章において、スケールが大きすぎたり漠然としすぎていたりで、正直とっつきにくいと感じました。(もちろん全部の問いがとっつきにくいというわけではありません。)たとえ話をすると、「バスの運転手さんはどんな仕事をしていますか」と聞くよりも「発車するとき、バスの運転手さんはどこを見ていますか」と聞く方が小学生は活発に議論を始めます。これと同じように、『市民のための』に関しても、学生や読者が討論・調査に取りかかりやすく、それでいて大きく重要な論点も確保できる「良い問い」というものが、もっと探せばあったのではないかと感じています。そして今回の評価会にいらっしゃった高校教員はその道のプロなので、そういう観点からもっと研究者側にフィードバックがあれば良かったのにと思う次第です。あと、問いがどうしてもスケールが大きなものになるようでしたら、スタート地点となる絶対必読文献を1冊か2冊だけを(巻末に並べるだけでよしとするのではなく)各問いのすぐ下に置いておくと、生徒も取り組みやすいのではないかと思います。

ところで、歴史教育研究会や学術会議の提言では、諸外国の教科書を見習って、日本の歴史教科書は生徒への問いを載せるべきだと主張されています。もっともです。ところが、「中学校」の歴史教科書ではだいぶ前から「調べてみよう」「話し合ってみよう」みたいな問いが載せられています。しかし、全くと言っていいほど活用されていないのが現状です。(…正確にはアンケートとってみないと分かりませんが。)単に欧米を見習って教科書に問いを載せればいい、という話でもないのです。そのあたりもう少し高大連携によって研究が深まればいいなと思っています。長々と失礼しました。以上です。

No title

詳しいコメントを有り難うございました。お礼が遅れてすみません。ご意見のほとんどがもっともだと思いますが、いずれにしても訴えたいのは「この教科書を使えばすべてがうまくいく」という発想からの脱却です。もうひとつは「新聞や職場での議論に対応できるようにしておくこと(この教科書は大学生用の教科書です)」。問いをすぐに答えられないようなものにしたのも、そういう目的でわざとやった部分があります。哲学の討論はしばしば「正解を出すことが目的ではない」といいますが、歴史もそういう部分がないわけではない、というふうにも説明できます。
プロフィール

ダオ・チーラン

Author:ダオ・チーラン
ヒツジ年生まれで写真のニワトリに深い意味はない。横浜で生まれ育った関東人だが、大学入学後現在まで関西で暮らしている。
本業は歴史学者で、専門は中・近世のベトナム史、海域アジア史、歴史学の評論・解説など。
趣味はパ・リーグを中心としたスポーツ、鉄道ほか。
このブログの意見はすべて筆者個人のものであり、いかなる組織にも関係ありません。

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