スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

人文学を守る方法

国立大学の人文系や教育系を整理しろとか、G型とL型(や特殊分野の単科大学)などに国立大学を分けろ、など「単細胞な実学主義」にもとづく政策が--日の丸君が代義務づけなどと抱き合わせで--強行されようとしている。しかしそれに対する人文学の側からの反論は、19世紀的教養主義や高度成長時代の右肩上がりの発想を捨てきれない、旧態依然としたものであるケースも少なくないように見える。ちなみに私がそういう批判を繰り返してきた背景には、「世界を論ずる際に東南アジアをシステマティックに無視してきた」(本欄で再三紹介しているミシガン大学のVictor Lieberman教授の言葉)歴史学界を含め、これまで学ぶに足る人文的教養の対象を東南アジア(やアフリカ)にほとんど見出してこなかった人文学への反発がある。

で、大阪という場所で、私のようにある種の古き良き教養には縁のない人間が考えると、以下のような発想や主張が必要になる。阪大歴教研や協力関係にある各地の高校・大学の研究会などで散々議論してきたこと、『市民のための世界史』序章や終章に書いた内容が多いのだが(もちろん以下の内容は、歴教研の公式見解などではなく、私個人の見解にすぎない)、現在の時点なりのまとめ方を示しておきたい。今日の夕方、久々にさわったツイッターにもう少し単純な書き方をしたのを推敲したものである。

(1)まず現状認識:「文学部というのは文学をやっているところ、つまり小説家や詩人を養成するところ」という認識が世の中の多数派であることを認識するところから出発すべきだろう。同様に「歴史や古典はわかってしまった動かない過去のことを扱うのだから、おんなじことを教えたり解釈合戦をしてるだけで、新しく解明されることなどない」と思っている人が世の中の多数派であるという前提で、我々は対策を考えねばならない。そして、高校時代に歴史や古典の授業がひたすら苦痛だった人が世の中の多数派であり大学の権力も握っていることへの想像力をもたねばならない(数学や物理の時間がひたすら苦痛だった人ならできるはず)。そういう世界では当然、ノーベル賞も高校生オリンピックもない人文学において、日本の学界や教育界が世界トップレベルにあることなど知るわけがない。こういう「なんにも知らない人々が、しかし世の中の多数派であり権力を握った人々である」。この認識に目をつぶる、もしくはこのての人々を「汚らわしい」などと排斥するのは、『文学部という病』『グロテスクな教養』といった書物でつとに批判された古いインテリ主義にしがみつくものではないか。
(2)発想の転換と「敵味方」を見定めること:要するにわれわれは、ほとんど「宇宙人」を相手にしているに等しい。「コンテクストを共有しない相手との競争やネゴシエーション」の訓練をほとんど受けたことのない通常の日本人には、とても骨の折れる仕事だろう。しかしやらねばならない。そこでは「なんにもわかってない人ほど洗脳も容易である」と発想を転換するのがよいだろう。実際、企業人や理系の学者にはそういう人はよくいる。その点で始末が悪いのは、いろいろ知っている社会科学系の学者である。またまた「汚らわしい」などと目くじらを立てずに取り組めば、(アホな政治家はダメでも)財界人や理系の学者を味方に付ける方法は、いろいろあるはずである。
(3)戦略1-相手を脅す:(現状認識で述べたような欠けている基礎知識をまず与えた上で)哲学や歴史や伝統文化や文学や美学や、そういう素養のない世界がビジネスや外交や政治や産業や医療や。。。にとっていかに破局的であるか、いかに世界の恥であるか、理系や社会科学系の国際的研究展開にもいかに不利であるかの実例をあげて、「実学一本槍の人々」を脅す。あるものの「有用性」はプラスの価値を生むことだけにあるのではない。医学や保険業を「虚学」「虚業」とは言わないだろうが、それらはプラスの価値を通常は生まない。しかしそれなしでは生じうるマイナスを食い止める。だったら人文学も立派な実用性がある。中国とビジネスや共同研究(やケンカ)をしたかったら、相手の歴史や文化、社会を理解してないと大変なことになるよ、というのは一番わかりやすい例だろう。
(4)戦略2-自分の欠点は素直に認め、ただし現在は改革に邁進していると主張する:「とにかく政府の圧力はけしからん、大学と学問の自律と自己改革に任せればうまく行くのだ」という論法は有益だろうか。、たとえばこんな西洋中心主義、こんな日本一国主義の再生産をしている人文学界、こんなジェンダーバランスの人文学界が、自律の主張によって自分を守れると思う発想が、私には理解できない。「既得権益を守ろうとしている」「役に立たない」などの決めつけとの不毛な対立(そこに待っているのはガダルカナル的な「不利な消耗戦」ではないのか)を避けるには、欠点を共有し外部に対しても認めた上で、改革をアピールすることである。細かく言えば、その欠点は人文学だけではないだろう、あんたたちだっておんなじじゃないか、あんたたちはそれに気づいているんだろうか、というイヤミはきちんと用意しておくべきだが。
(5)戦略3-人文学の面白さ、レベルの高さ、有用性を示す/気づかせる:「人文学を捨てるとこんなひどい目にあうぞ」という戦略1は、「人文学を大事にするとこんなにいいことがあるんだ」という説得とセットでなければ効果がない。「わかる」「面白い(知的興奮を誘う)」「ハイレベルである」「役に立つ」。こういうものの存在意義を否定するのは難しい。逆にこれらの特徴をアピールすることに失敗してきた結果が、今日の事態である。「有用性」が汚らわしいと思う人は「現代的意義」でも別に差し支えない。こういうことを示せない分野はそんなにないだろう。ただここは、こちらから主張して教え込むより、(戦略1・2の効果を前提として)、人文学を疑ってる人たちに自分たちで調べたり見つけ出すように仕向けるのが、より有効だと思われる(←阪大の「高度教養教育」での理系・社会科学系院生たちのグループ討論、理系の先生との論争などの経験からそう思う)。
(6)戦略3’-地方ごと、大学形態ごとなどで違った戦略を立てる:戦略3までだと、旧帝大とか東工大、東京外大など中央の有力大学でしか通用しないおそれがある(人文学者の側もそう思い込んでしまう危険が強い)。特に「地方大学にこそ人文学が不可欠だ」という論理構築が大事だろう。そこではたとえば、「地方経済が主にアジア系の外国人労働力や外国人観光客に依存している状況」を取り上げることができるだろう。つまり「国際化というのは少数のエリートが外国に出かけていっておこなう行動を指す」「グローバル人材というのも少数のエリート教育の話だ」などの伝統的理解はもはや無意味なわけである。地方社会のためにこそグローバル化を考え教えなけれならない。ばとなれば、百歩譲って「L型大学」を認めるとしても、やっぱり人文学を教えなければ使える人材は育たない(その人文学には、「孤立した国民国家日本」という前提を外して世界の中で考える日本研究も、当然含まれる。新しい日本史や日本文化の理解は、観光や経済振興にも当然有効である)。

戦争や政治闘争、企業経営や組織運営、将棋や囲碁、野球などが好きな人文学者には、こういう発想はそんなに受け入れがたいものではないと思うのだが、それらにまったく興味のない人にはどうだろうか?

関連記事
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

初めまして☆

緊張しながらのコメントなのでおかしいところあったらすみません。
ここのところ災難続きで凹んでばかりいました。

でもダオ・チーランさんのブログに巡り合えて読ませて頂いて気持ちが落ち着いて和みました
自分で自分のことを少し追い詰め過ぎていたのかもしれません。

そんなことにを気づくきっかけをくれたダオ・チーランさんとほんの少しだけでも言葉を交わしあえたらなと思うんですがどうでしょう…?
ほんの少しでも聞いて頂けたら自分の中で何かを変えられるんじゃないか…なんて思えたので。

コメントで悩みを打ち明けるのは気恥ずかしいですし直接反せないでしょうか。

迷惑でしたらコメント削除しちゃってください。
急な申し出すみませんがお待ちしてます、

管理人のみ閲覧できます

このコメントは管理人のみ閲覧できます
プロフィール

ダオ・チーラン

Author:ダオ・チーラン
ヒツジ年生まれで写真のニワトリに深い意味はない。横浜で生まれ育った関東人だが、大学入学後現在まで関西で暮らしている。
本業は歴史学者で、専門は中・近世のベトナム史、海域アジア史、歴史学の評論・解説など。
趣味はパ・リーグを中心としたスポーツ、鉄道ほか。
このブログの意見はすべて筆者個人のものであり、いかなる組織にも関係ありません。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
アクセス・カウンター
あなたは
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。