沖縄戦開始70周年
本土の人間が頭を垂れる日だ。辺野古の基地建設ごり押しを続けるべき日ではないはずだ。
全然別の話だが、ある学会でグローバルヒストリー批判をテーマに大会をやる計画があると聞いた。
(以下全くの私見。いかなる公的見解でもない)
「各国・民族や地域の主体性を軽視している」「弱者の立場に足っていない」などがお気に召さず、グローバルヒストリー批判に東奔西走している先生もいるらしい。
そういうタイプの研究があることはもちろん否定できない。なんといってもアイディアのもとはアメリカにある。だが、どんな研究潮流にも「できの悪い部分」はあるだろう。
その部分をあげつらって全体を否定することは生産的では(むしろ自分のアホさをさらすことになる)ないと、「悪口大好き」な私は若い頃によく先生からたしなめられた。
できの悪い部分だけを問題にするなら、われわれは「ソ連の影響をを受けた」戦後歴史学を全否定しなければならない。
また先行研究の不十分点を批判するのは正しいことだが、儒教的伝統の弱い日本の歴史学は、道義的評価を目的とするものではないはずだ。
2月の東大シンポでも言ったが、こういうところの発想を決めるのは歴史学のトレーニングそのものというより、もっと一般的な教養とりわけ想像力や論理的思考の訓練だと思われる。
全然別の話だが、ある学会でグローバルヒストリー批判をテーマに大会をやる計画があると聞いた。
(以下全くの私見。いかなる公的見解でもない)
「各国・民族や地域の主体性を軽視している」「弱者の立場に足っていない」などがお気に召さず、グローバルヒストリー批判に東奔西走している先生もいるらしい。
そういうタイプの研究があることはもちろん否定できない。なんといってもアイディアのもとはアメリカにある。だが、どんな研究潮流にも「できの悪い部分」はあるだろう。
その部分をあげつらって全体を否定することは生産的では(むしろ自分のアホさをさらすことになる)ないと、「悪口大好き」な私は若い頃によく先生からたしなめられた。
できの悪い部分だけを問題にするなら、われわれは「ソ連の影響をを受けた」戦後歴史学を全否定しなければならない。
また先行研究の不十分点を批判するのは正しいことだが、儒教的伝統の弱い日本の歴史学は、道義的評価を目的とするものではないはずだ。
2月の東大シンポでも言ったが、こういうところの発想を決めるのは歴史学のトレーニングそのものというより、もっと一般的な教養とりわけ想像力や論理的思考の訓練だと思われる。
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