「試しにこう考えて見よう」という手続きを許さない人々

與那覇潤さんの『中国化する日本』を褒めた私の記事がブログでボロクソに書かれているのを偶然発見。
http://watashinim.exblog.jp/m2013-04-01/
本論は與那覇批判なので私は出る幕ではないのだが、與那覇本が日本の植民地主義や侵略(特に朝鮮半島に対する)を免罪する立場に立っているという批判を詳しく書いてる人がいて、與那覇さんがそれに対して沈黙しているのは反論できないからだ、したがってそういう本を褒め桃木(その他数人の名前もあがっている)もバカだ、という理屈だと理解した。

個々の論点について、元の書評での與那覇批判を私が論評する能力はないが、基本的にズレているのは、大日本帝国についてこの批判者のような「正当派」の言い方でダメな相手をどうするかという発想で書かれている與那覇本に対して、正当派の意見を書かないからそれは日本の植民地支配や侵略を免罪するものだという批判をしている点だろう。変化球を投げたのに、直球の投げ方だけを基準にして、「けしからん、お前のボールの握りや投げ方にはこれこれの欠点がある」と批判しているようなものなのである。私がいつも言っていることだが、こういう批判をする人は、「ためしに通常と違うこれこれの見方をしてみよう」「わざとこういう角度から見たらものはどう見えるか」という考え方を許さない。歴史についてそんなことをしようとすると、支配者や侵略者を免罪するとして罵倒される。人民の主体性を否定するとして非難される。しかしそういう非難の下からは、きわめて画一的な「正しい見方」しか出てこなくなる。そうすると、その正しいこと自体が「本当に理解してはいないタダの暗記」になり、「反動派」の変化球攻撃や反則攻撃に対応できなくなる。このジレンマへの悩みが、批判子にあるかどうかは、上の記事とそこに引かれている元書評からは読み取れなかった。

ちなみに與那覇本の「中国化」「江戸時代化」などの「定義が示されていない」という批判のあたりが、「ためしにする議論」を受け付けない人々の論理的特徴をよく表しているだろう。ある種の歴史主義に立脚して、「超歴史的」と見える枠組み設定を最初から受け付けないというのは、「歴史を論ずるという営み」の幅を自ら狭めることだと、私などは考える。
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ダオ・チーラン

Author:ダオ・チーラン
ヒツジ年生まれで写真のニワトリに深い意味はない。横浜で生まれ育った関東人だが、大学入学後現在まで関西で暮らしている。
本業は歴史学者で、専門は中・近世のベトナム史、海域アジア史、歴史学の評論・解説など。
趣味はパ・リーグを中心としたスポーツ、鉄道ほか。
このブログの意見はすべて筆者個人のものであり、いかなる組織にも関係ありません。

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