英語なんてこわくない? (その2)

1994年の次の転機は、2003年にやってきた。
その間に、1998年から数年おきに開かれるようになったベトナム学国際会議で毎回研究発表や、ときには司会をするなど、ベトナム語による国際会議に慣れてきたという状況もあった。

2003年、国立シンガポール大学に設立されたアジア研究所(ARI)の所長になったアンソニー・リード先生や、その下で助教のような仕事についたジェフ・ウエイドから誘われて、まず7月に「15世紀の東南アジアと明のファクター」というシンポジウムに出席した(近世ベトナムの風水に関する発表をして、のちにシンガポールから出た論集に収録されている)。ディスカッションで予想通り詰まったのを、ケネス・ロビンソンさんが助け船を出してくれたのを覚えている。
また10~12月に3か月間、アジア研究所の客員研究員として滞在させてもらった。私のゼミ1期生のI・Nさんが、すでにトニー先生のところに来て博士課程の研究をしていた。当時は研究所がメインキャンパスの中にあり、大通りを挟んで反対側の教員宿舎に部屋をもらえた(家族用アパートメントだったので一人暮らしには広すぎた)ので、たまに街に出るとき以外は宿舎と研究所、それに別棟にもらった客員研究室、そして大学内の食堂などを往復する生活だった。

このときチャンパー研究で有名なベトナムのチャン・キー・フオン氏がやはり客員研究員で来ており、かれとはベトナム語で話ができたが、その他は99%英語で話さねばならず、学界以外の場での英会話にだいぶん慣れた。教員もポスドクも学生も世界中から集まっており、みんなが英語がうまいわけではないので、その意味で気楽に色々な人と話が出来たのがとてもよかった。音に聞くシングリッシュはやはりとても聞き取りにくく、あるセミナーでシングリッシュによる報告がまったく理解できずにげんなりしていたら、次の報告者が話すインド英語がそれよりずっとよく聞き取れたので感動してしまったことがある。それ以来、インド英語が怖くなくなった(もちろん全部わかるわけではない)。別のセミナーが終わった後、チャン・キー・フオン氏が「おれたち、英語をしゃべればしゃべるほど、ホントに言いたいことから遠ざかっていくなあ」とベトナム語でいうので(かれは米国長期滞在などの経験があって、会話は私よりはるかに慣れているのだが)落ち込んだこともあるが、とにかくいい経験がたくさんできた。ジェフ・ウエイド以外にもスン・ライチェン、エリック・タグリオコッツォなど今をときめく若手研究者と知り合いになれて、研究の刺激も大いに受けた。

ちなみにこのときの計画では、3か月間日本の仕事から逃れて、博士論文をほぼ完成まで持って行くつもりだったのだが、全然そんなふうにはいかなかった。2008年2学期にサバティカルをもらって、博士論文はようやく完成したが、2011年にそれを本にして出版する際に後書きでぐちったように、最初の予定通りに出したら画期的だったが今やそんなに驚くべき成果ではない、ということになってしまった。

これと同じころ阪大では、21世紀COEプログラムというのをやっていた(2002-06年度「インターフェイスの人文学」)。
「今をときめく」阪大歴史教育は、「社学連携」を掲げるCOEプログラムの中でスタートした活動だが、歴史組は教育だけでなく、研究ももちろんやっていた。途中から私が「世界システムと海域アジア交通班」というグループの代表になったので、沖縄と長崎で1回ずつ、トニー先生のアジア研究所との共催で、東南アジアと東北アジア(日本列島・朝鮮半島など)をつなぐ海域史のシンポをやった。その成果の一部が去年シンガポールから出たOffshore Asiaという論集である。

これは当時の特任研究員でオランダ帰りのF田K子さんがいたから出来たことだが、同じ特任研究員だったY内S次さん、H田T志君などを英語の世界に引きずり込む重要なきっかけになった(あのころおどおどしていたY内さんが最近堂々と英語で発表するカッコよさ!)。その後もめでたくパーマネントの職をえたF田さんがグローバルヒストリーの科研でセミナーやシンポを何度もやるなど、海域史での英語圏とのつきあいが続いている。カナダのトロントで開かれたアメリカ・アジア学会(AAS)に参加してパネル報告をするなんていこうこともあった。21COEプログラムのあたりからやはり英語で発表するようになった九大のN島G章さんなども、今や世界を飛び回り英語でも次々発表している。

上記の長崎シンポで忘れられないハプニングの一つは、頼み込んで参加してもらった日本近世史の某大先生が、自分で英語はよう書かんというので日本語原稿を業者に頼んで翻訳してもらったのだが、日朝関係を担った対馬の宗氏(大名)がMr.Soと訳されているような悲惨な翻訳がシンポ直前に帰ってきて、私が徹夜で直すということがあった(山ほどある明らかな間違いを、「これならなんとか理解してもらえるかな」という英語に直しただけで、「上手な英語」にできたわけではない)。これ以来私は、人文系の翻訳のプロを育てなければいけないと主張し続けている。
似たようなことは、角山栄先生から頼まれてお手伝いした堺市の「アジア歴史文化都市会議」というプロジェクトで、市民向けに作ったパンフの英語版(Sakai, Nutured by the Asian Sea: Re-Examining the Networks of Port Cities during the
Medieval and Early Modern Eras)にもあった。自治体がプロジェクトの協力相手の厦門、ホイアン、アユタヤ、バンテンなどのことも考えて英語版を作ったのはいいのだが、市役所から来たゲラ(イベントの通訳などしていた英語ネイティブの人が訳したか)を見ると、やっぱり歴史がわかっていない。これは純粋なタイプミスかもしれないが、ゲラに「日本のthe Onion
War」と書いてあって「はて、タマネギ戦争? 泉州でそういう戦役があったっけ」などと思ったら,応仁の乱(the Onin Civil War)だった。

その後も仕事は増えた。
2008年の春頃、同僚の秋田茂氏からメールが来て南塚信吾先生といっしょにグローバルヒストリーの学会(アジア世界史学会=AAWH)を立ち上げる、来年の5月に大阪で創立大会をやるからお前たちも協力しろ、と言ってきた。アメリカのAASなどに対応する学会で、世界史教育を重視すると言われ、神奈川や北海道の高校の先生に報告を頼んだ。私自身も日本の歴史教育の問題点と阪大の新しい取り組みについて報告した。2009年5月の中之島センターだった。西洋史の助教だったN村T司君と歴史教育研究会の事務局をやっていたG藤A史君、MかいS樹君の「団子三兄弟」など、日本史・東洋史を含むポスドク・院生が運営に大活躍した。たしか同年に、阪大の留学生向けの授業でも1人3回ずつぐらいで分担して、グローバルヒストリーの講義を英語でやった覚えがある(パワポは偉大だ! 写真とキーワードをどんどん映せば、複雑な英作文をしなくても講義はできる)。

2012年4月にソウルで開かれたAAWH第2回大会でも、高校教員にパネルを組んでもらったり、阪大の若手に応募させたりと大騒ぎをして、おおぜいの阪大関係者(英語が上手なのはごく一部)に参加・報告をさせた。このときはアプリケーションの書式が結構詳しく書かねばならないもので、一部の高校の先生の履歴や発表要旨の添削はけっこう面倒だった。他方でベトナムの知人にも第1回から参加を呼びかけており、少数だが慣れない若手を無理に発表させることもできた。このとき私は初挑戦で、ベトナム史(朝鮮・日本との比較)と世界史教育の2つのパネルを企画した。ただし後者は趣旨説明だけで発表はしなかった。それが今週出し終わった第3回シンガポール大会(2015年5月)では、日朝越比較史と世界史教育と2つのパネルを企画して、両方とも発表もすることになってしまった。来年は5月初めにピッツバーグで開かれる世界史教育のシンポにも招待されており、ほぼ同じ話でいいだろうと思うのだが、それにしてもベトナム史(14~15世紀の社会変動)と2つともちゃんとペーパーが書けるだろうか。今回はアプリケーションが簡略化されていたので、高校の先生などもあまり苦しまずに申し込みができたようだが、協力してもらう外国人を含め「阪大軍団」によるパネル申し込みが全部で7つぐらい出たようだ。これに同じく仲間や若手に強引に勧めてアプライさせた海域アジア史、ジェンダー史、ベトナム古代学などを合わせると合計10か11。それ以外にも日本人の申し込みはあるはずで、「シングリッシュとジャパニーズイングリッシュによる熾烈な論争を英米のネイティブが呆然と聞いている」などという図が見られるかもしれない。

というふうに、相変わらずリスニングなどちっとも向上していないにも関わらず、自分でも英語とベトナム語でそれぞれ毎年1回ぐらいは発表するし、博士後期の院生やポスドクにも当然のようにアジア現地語と英語の両方で発表することを要求する先生になっていまった。自慢しているように見えるだろうが、あの大学入試の成績でもやればできるのである。
まずは英語論文を読む授業ないし研究会を恒常化させること、そして欧米でなくアジアで国際会議に出ること、そういうことをしばらくやっていると、学生に再三再四言い聞かせていることだが、日本の伝統的受験英語の優秀性がわかってくる。「受験英語+場慣れ+日本語できちんとした論文が書ける専門性」があれば、このぐらいのことができるのである。
なお、「積極性」や「熱意」がなければ「場慣れ」はできないことは言うまでもない。「目立ってナンボ」「先に黙ったら負けだ」という精神をおつ大阪人は、その点で日本最強だと、私は学生に言い続けている。「話すべき内容」をもたない人間に、いくら会話の英才教育をしても「使える英語は身に付かない」という語学のイロハ-これが常識にならない日本は本当にレベルが低い-も、同じことを言いかえたにすぎない。私には日本人にも外国人にも伝えたいことがたくさんある。私が見るに、日本の歴史学や歴史には、世界に伝えるべき内容がゴマンとある。

「専門性」についてもうひとこと。そのかみの「東南アジア史学会関西例会」で石井米雄先生が、学生が論理的でないプレゼンをすると「それ英語でなんていうの、いってごらん」「英語で言えないようなこと発表しちゃだめだよ」と口癖のように言っていた。
まだ英語恐怖症から自由でなかった当時の私は、「なにをこの英語帝国主義者が」とか内心で思っていたのだが、ムリヤリ英語で発表したり学生の指導をするようになってわかった。

それは英語が論理的な言語だとかいう馬鹿な話ではない。フランス語なりドイツ語なりをちょっとかじれば、英語はいかに非論理的か(だから気安くだれでも使える)かはすぐわかる。そうではなくて、非論理的な、要するになにを言いたいのかがよくわからない「ゆるい」日本語を書いている学者や院生が多いということなのだ。あるイコンテクストを共有している「仲間」であれば、それでも「以心伝心」で理解できるのかもしれないが、そういう文章は、なにがいいたいのかわからないのだから、コンテクストの異なる外国語に翻訳するのは難しい。別に外国語にせずとも、事典や教科書を書かせれば。そのことがすぐわかる。


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ダオ・チーラン

Author:ダオ・チーラン
ヒツジ年生まれで写真のニワトリに深い意味はない。横浜で生まれ育った関東人だが、大学入学後現在まで関西で暮らしている。
本業は歴史学者で、専門は中・近世のベトナム史、海域アジア史、歴史学の評論・解説など。
趣味はパ・リーグを中心としたスポーツ、鉄道ほか。
このブログの意見はすべて筆者個人のものであり、いかなる組織にも関係ありません。

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