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英語なんてこわくない?

多くの後輩や学生をムリヤリ国際学会に応募させたりしているので、みんなの参考に、私の英語歴を書いておこう。
私の親友や指導学生でも、全部は知らないだろう。

父親は留学経験もあるし、母親は横浜市がやっていた「ホームビジット」という事業で、日本人の家庭を訪ねたいという外国人観光客を家に迎えたりしていた(原則は午後に来てもらいお茶を出す)が、どちらも英語が「ペラペラ」とかいうことはなかった。私もそういう家庭環境でなにかを得たということは特になかった(オーストラリア人は「今日」をトゥダイ、「休日」をホラダイと発音する、なんていう知識は高校に入る前から持っていたが)。
私の英語は、中学時代はワルが多いので有名な中学だけあって楽勝だった。しかし高校は神奈川県有数の進学校に入って苦しんだ。翻訳はけっこうできたのだが、単語の意味やアクセントを覚えることが全然できなかったし、リスニングも作文もだめだった。英文法の教師に馬鹿にされてアメリカへの憎しみがわき、ベトナムを応援するようになったという高校時代の話は散々したところである。そして大学入試も(センター入試などない時代の一発勝負)、数学が奇跡的に易しかったので助かったが英語は予想通りボロボロだった。

大学では無謀にもフランス語を第一外国語、中国語を第二外国語にした。要するに英語から逃げたかったのである。
当然フランス語も中国語も、なんとか辞書を引き引き読めるようになっただけで、会話などできはしない。ただ、中国語の発音や文法はもちろんだが、フランス語の発音規則や文法も、英語よりずっと論理的なところがけっこう面白かったので、自分で使いこなせるわけではないのだが、外国語への興味は広がったのがありがたかった。

そういうわけで私は大学時代に英語を習っていない(語学学校などにも行かなかった)。院生時代から東南ア研に出入りするようになるといろんな外国人がいて、英語で話しかけられることもよくあったのだが(アウンサン・スーチーさんとも少しは話したことがある)、おおむね逃げ回っていた。また院生時代に英語の論文を読む演習なども石井先生の授業を含めて少しはあったのだが、はっきり苦痛だった。

この先は学生に再三再四しゃべってきたのだが、ベトナム留学が最初の転機になった。といっても当時のハノイでは、英語をしゃべる機会はほとんどなかった(院生時代に3ヶ月で逃亡したロシア語を、もっとやっておけばよかったと思ったことはある)。外国語のほとんど通じないハノイで、必死にベトナム語を覚えて毎日しゃべったり書いたりして、それから帰国したら、英語への抵抗感が薄れていたのだ。日本の学校英語(や第二外国語)ではちっとも身につかない、外国語を使う(話す、読み書きする)のはどういうことかが、体でわかったのだと思われる。もうひとつは、ベトナム人の英語を聞いて自信がわいたというのもあるだろう。フランス語はすごく上手な老先生などがいたが、英語は発音も文法も「不思議な」ものが多かった。

帰国後しばらくして、東南ア研の桜井先生が英語の読書会(なぜか「かぼちゃゼミ」と呼ばれていた)をやるようになって、われわれ「奴隷軍団」の若手研究者・院生が参加した。最初はアンソニー・リードの『交易の時代の東南アジア』第一巻と泊まり込みで読んだ。そのとき私は--東南アジア史の知識そのものがだいぶ増えていたこともあるが--留学前よりずっと良く読めるのに気づいた(元がいかにひどかったかという話だが)。大阪外大で毎日ベトナム語を教えたりベトナム人の先生と話すという環境も、やはり英語にプラスだったのだろう。

そして運命の1994年。東京に移っていた石井先生・桜井先生が中心になった「アジア歴史学者会議(IAHA)」の大会で、はじめての英語での発表。岩波の『世界史への問い』に書いた貿易史の論文を手直ししたものだが、さいわい東南ア研時代に知り合ったレオナード・アンダヤ先生が注目・紹介してくれて、アメリカの学術雑誌Crossroadsに掲載されることになった。このレフェリーとのやりとりや要求に従った手直しがまた大変だったのだが、99年には刊行にこぎつけた。
その間に、石澤先生の国際学会、福井先生の京大とタマサート大学との拠点間協力プロジェクトなどでも、英語でペーパーを書く機会があった。東南ア研のセミナーに、今をときめく黒田明伸さんや田口宏二朗さんを引っ張り出して英語でしゃべらせたのも、90年代のことだったと記憶している。

94年は私が、阪大で教養部から文学部に移った年でもあった。東洋史はH嶋、M安の両巨頭が超スパルタで学生を鍛え上げている、K都大学とは対照的な環境だったが、そこでは学部生向けの「英語ゼミ」というのがあって、私も担当しなければならなかった。普通の英語文献の講読の授業で、最初はCambrideg HIstory of Southeast Asiaを輪読したような気がする。たしかその一期生で、当時は「私、英語というものを受け付けないんです」とかいって悲惨な訳をしていたのが、のちに国立シンガポール大学でアンソニー・リード先生の指導下に博士論文を書いたI・Nさんだった。毎学期・毎週、学生といっしょに英語論文を読むのは、いい訓練になった(続く)。

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プロフィール

ダオ・チーラン

Author:ダオ・チーラン
ヒツジ年生まれで写真のニワトリに深い意味はない。横浜で生まれ育った関東人だが、大学入学後現在まで関西で暮らしている。
本業は歴史学者で、専門は中・近世のベトナム史、海域アジア史、歴史学の評論・解説など。
趣味はパ・リーグを中心としたスポーツ、鉄道ほか。
このブログの意見はすべて筆者個人のものであり、いかなる組織にも関係ありません。

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