スポーツの国際試合の報道に見るナショナリズムの幼稚化

玉木正之氏のコラムで教えられた。
オリンピック精神は国と国との競争を否定しており、実際のオリンピックでも、国ごとのメダル数の比較を禁止しているのだという。実際にはメダル数の表が毎日のマスコミに出るが、あれはオリンピック憲章を踏みにじっているのだそうだ。

それにしても自国の選手の活躍を願うという感覚は私にだってある。だが、ドイモイ前のベトナムのウルトラナショナリズムを知っているし戦時中の日本の教訓を忘れるわけにはいかない身として気になるのは、このごろのスポーツ報道が「健全なナショナリズム」から「ただ日本選手が勝つことだけを願う幼稚なナショナリズム」に退行しているのではないかという点である。

前置きが長いが、要するになにが気になるかというと、対戦相手の外国選手やチームの紹介が少なくなっていることである。チームスポーチの中継で相手側のラインナップ、選手の特徴や得意技などをあまり紹介しない。個人スポーツの結果の報道では「日本の○○選手は、A国選手に勝った(負けた)」しか言わない。予選ならいざしらず、世界選手権で銅メダルのかかった準決勝で、相手選手の名前を書かない新聞なども、つい最近見た。

これでは外国選手は、「西部劇のインディアン」(なんだかわからないが危険な敵)と同じだ。
もっと今の若者をふまえた言い方をすれば、「一人で遊ぶゲームの中の敵」なのかな?

ここには「ライバルを尊敬する」スポーツマンシップもなければ、「敵を知り、己を知れば百選危うからず」という知恵もない。
こういう幼稚な態度で、最近の政府から若者からみんなが熱望している、「海外からほめそやしてもらうこと」ができるとは思えない。

もうひとこと書くと、「他者の不在」はアメリカ社会にもよく見られる現象だ。アメリカのベトナム戦争映画を見ると、アメリカを完全に正当化するものは論外として、あの戦争への批判・反省を示す作品でも、大半は「アメリカ的な自由やfairnessの観念に反することをやった」という反省であって、相手は「なんだかわからない熱帯の人々」でしかない。良くも悪くも旧植民地アンドシーヌへの思い入れを示すフランスの映画とは対照的である。
こじつけだが、現代日本のスポーツ報道から「相手」が消え失せているのは、一部は深刻なアメリカナイズのせいか。
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No title

相手方が存在しないナショナリズム。
 
 スポーツ報道が軽薄になっている件、技術的な面から言いますと。
 大活字化が繰り返された結果、新聞1頁の収容文字数は、20年前の約6割に減っています。
 「情報量は変わりなく」「より吟味して」の結果、ウケ易いものに偏る傾向はあるでしょう。
 
 また、「海外では署名記事で・・・」という、もはや古典と化した新聞批判も、傾向を後押ししています。
 日本で主観報道を希望されると、浪花節・講談の類への回帰しか手がないのです。
 市場も含めた自由度の問題から、誤解か確信的かにかかわらず。
 
 一般紙が情緒的な記述に回帰し、いったんはソレを分担していた娯楽紙と大差なくなった。
 ネット出現以降、紙商売が縮小する中で、親が子の食い扶持を取りにいく状態、とも言えます。
 一方で、米誌を真似た「スポーツジャーナリズム」も試みられますが、成功や失敗があります。
 
 煽情的な記述の原因について。
 「権力とメディアの関係」「ページビュー稼ぎへの最適化」といった、よく知られた理由のほかに、上記のような周辺状況もある、というお話でした。

 (20年ぶりに顔出してその程度かよ、というお叱りは覚悟しています)

Re: No title

ご教示ありがとうございます。
新聞の状況がよくわかります。
しかしあのブログでもっと問題にしたかったのはテレビです。CSとの機能分担といえばそれまでですが、地上波のスポーツ中継は極端にひどいですよね。新聞と違って、中継時間が同じならしゃべれる量は同じだし、映像技術は急速に進歩しているのに、中継・解説の内容は劣化する一方。
パリーグ選手の名前を満足に覚えようとしない野球中継もですが、バレーボールその他の国際試合の中継が特に気になります(あんな番組を平気で放映するテレビ局主導で国際試合を動かしているから、バレーボールが強くならないのは明らかでしょう)。ある時期から中田英寿に野茂英雄にイチローなどなど、マスコミと波長が合わないトッププロが増えたのも当然でしょう。


> 相手方が存在しないナショナリズム。
>  
>  スポーツ報道が軽薄になっている件、技術的な面から言いますと。
>  大活字化が繰り返された結果、新聞1頁の収容文字数は、20年前の約6割に減っています。
>  「情報量は変わりなく」「より吟味して」の結果、ウケ易いものに偏る傾向はあるでしょう。
>  
>  また、「海外では署名記事で・・・」という、もはや古典と化した新聞批判も、傾向を後押ししています。
>  日本で主観報道を希望されると、浪花節・講談の類への回帰しか手がないのです。
>  市場も含めた自由度の問題から、誤解か確信的かにかかわらず。
>  
>  一般紙が情緒的な記述に回帰し、いったんはソレを分担していた娯楽紙と大差なくなった。
>  ネット出現以降、紙商売が縮小する中で、親が子の食い扶持を取りにいく状態、とも言えます。
>  一方で、米誌を真似た「スポーツジャーナリズム」も試みられますが、成功や失敗があります。
>  
>  煽情的な記述の原因について。
>  「権力とメディアの関係」「ページビュー稼ぎへの最適化」といった、よく知られた理由のほかに、上記のような周辺状況もある、というお話でした。
>
>  (20年ぶりに顔出してその程度かよ、というお叱りは覚悟しています)
プロフィール

ダオ・チーラン

Author:ダオ・チーラン
ヒツジ年生まれで写真のニワトリに深い意味はない。横浜で生まれ育った関東人だが、大学入学後現在まで関西で暮らしている。
本業は歴史学者で、専門は中・近世のベトナム史、海域アジア史、歴史学の評論・解説など。
趣味はパ・リーグを中心としたスポーツ、鉄道ほか。
このブログの意見はすべて筆者個人のものであり、いかなる組織にも関係ありません。

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