スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

デング熱

国内で69年ぶりにデング熱の感染者が出たという報道。これも日本の熱帯化のあらわれか。
戦争中に南方で兵隊さんがかかったという話を聞いていたが、私自身がハノイ留学中にかかった。

1986年10月に留学して、翌年の6月末に、われわれ聴講生も学年末試験を受けた。ハノイの6月というのは、雨がほとんど降らず、きわめて暑い時期である。ノートをとっていると、ノートの上の手や腕から流れ出す汗で、ノートの紙がぐんにゃり湿った。
試験が終わって、私の誕生日が来た。同期留学のYさんほかとリー・クオックスー通りの有名なレストランに飲みに行って、夜まで続く暑さに耐えられずにしたたかビールを飲んで、当時住んでいたホテルに帰りすぐ寝た。

夜中目が覚めると、頭がガンガンする。カゼかと思って薬を飲んで寝ていたが、翌日も翌々日もまったくよくならず、夜もよく眠れない。暑いせいで眠れないかと思い、冷房の効いた日本人の住居で頼んで寝かせてもらったりしたが効果はない。
頭痛だけでなく消耗感が強まってきた。

1週間ほどたって、日本人Kさんのすすめで近所の診療所(村xaや街区phuongのレベルに1つあるtram y teと呼ばれる施設)に行ったら、一目見てこれはデング熱(出血熱 sotxuat huyet)だという。皮下出血してるだろうといわれてみると、たしかにスネが皮下出血で真っ黒になっている。皮下出血で栄養分が失われるが、たいていはおとなしく寝ていれば治る、しかしまれに内出血で死ぬ人もいる、とくにアスピリンを飲むとショック症状で危ないのだなどと説明された。

即紹介状を書いてくれて、ハノイでいちばん高級な「ベトナムソ連友好病院」に入れてもらえた。
病棟にもランクがあり、私が入れてもらったのは下のランクの大部屋だということだったが(寝台はベトナムでふつうの、板張りにござをしいただけのものだった。やせぎすでおまけに体が硬い私には、これは快適ではなかった)、それでもふつうのベトナム人が入院する病院よりよほどよかったそうだ。しかもまだドイモイが本格化する前だったので、費用はいっさい請求されなかった。

ここの2週間入院していた。最初に検査をした医師の英語はとても怪しく、しかも採血や薬の注射に使う注射器の針はまだ、使い捨てではなかった。ちょっと怖かったが、じたばたしても始まらない。
病室はエアコンこそないものの、天井からぶら下がった扇風機があり、暑苦しくはなかった。ちょっとつらかったのは、簡単な水浴びしかできず、体がよく洗えなかったことぐらいだ。

薬のことをよく覚えていないのだが、症状はだんだんよくなって、夜も眠れるようになった。
ありがたかったのは食事で(幸い下痢はしなかった)、鶏肉と野菜のスープを毎日のように出してくれたのだが、これが昔、父が病気になると祖母がいつも作っていたというのと同じで、消耗した体を実によいものだった。それとYさんかKさんかどちらかが差し入れてくれた梅干しでご飯をしっかり食べることができ、体力がどんどん回復した。

2週間で退院すると、まずやったことは熱いシャワーを浴びて体を洗うこと、それに(メールもネットもない時代だったので)日本人記者のところに行って日本の新聞を見せてもらうことだった。体重を量ったら、5キロ以上減っていた。

留学の最初の一年、ハノイ百科大学の建物の一つを借りているハノイ総合大学ベトナム語科の建物(教室・事務室と留学生寮が同じ建物の中にあった)の都合でその中の留学生部屋には入らずにホテル住まいをして、毎日ベトナム語科のベーバイビス(百科大学の建物番号B7bisのこと)に自転車で通っていたのだが、退院後に予定通り、ベーバイビスに引っ越した。そして間もなく一時帰国(7月下旬)。
そのときは直行便はまだなく、バンコクを経由するしかなかったのだが、5年前に留学したときに手続きの都合で持ち帰れずベーバイビスの図書室に木箱に入れて積んだままにしてあった大阪外大のTK先生の本を、段ボールに詰めて手荷物で持って出なければならなかった。バンコクの当時のドーンムアン空港で、カートに一杯段ボールを載せてひょろひょろと外へ出たら、インドネシア史のF見さんが待っていて、翌日から東北タイの遺跡見学に行くのでついてこいという。その晩はバンコクの京大東南ア研の事務所に泊めてもらい、翌朝F見さんといっしょに出発、2泊3日でバーンチェンやらピーマイやらの遺跡見学をして2泊3日でバンコクへ帰り、その翌日に日本に向けて出発した。あの暑い中を、病み上がりにこういう強行日程をして、よく無事だったものだ。若いってすばらしい。

ちなみに私と同時期に、ハノイの同じホテルに滞在していた日本の商社員がやはりデング熱になり、現地で治療せずに日本に帰国したが、医者がデング熱のことなど知らないのでかえって大変だったらしいという話を、あとで聞いた。
京都の下宿に帰った私が最初にやったことは、たしかケーキ屋へ走って行くことだった。何度も話したが、当時のハノイにもおいしい餅菓子はあったが、ガトー(ケーキ)はこの世のものとは思われないまずさだった。

9月にハノイに戻ってもう1学年すごし、翌年7月末にラオス経由で帰国した。帰国直後にA型肝炎を発病し、ふつうの生活に戻るまで半年かかった。全然威張れないのだが、ベトナムでは2つ病気をしたわけである。そのせいもあってか、私はその後しばらく、研究そのものやベトナム語の実力よりも、「あのハノイから生きて帰ってきた」ことで評価されていたような気もする。




関連記事
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

ダオ・チーラン

Author:ダオ・チーラン
ヒツジ年生まれで写真のニワトリに深い意味はない。横浜で生まれ育った関東人だが、大学入学後現在まで関西で暮らしている。
本業は歴史学者で、専門は中・近世のベトナム史、海域アジア史、歴史学の評論・解説など。
趣味はパ・リーグを中心としたスポーツ、鉄道ほか。
このブログの意見はすべて筆者個人のものであり、いかなる組織にも関係ありません。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
アクセス・カウンター
あなたは
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。