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高校地理歴史教育に関する学術会議シンポ

今日、東大の駒場キャンパスで開かれた。定員200人の教室が一杯になり、追加で持ち込んだ椅子に座る人などもおおぜいいた。

内容は「歴史基礎」に関する新しい提言(昨日、学術会議のHPに出た)の紹介、高校世界史Bの用語限定など今後の改革方向の提言(昨日紹介した世界史研究所HPに出ている提案はそのたたき台)、「地理基礎」とその上にできる選択科目地理の構想、それにこの間「地歴融合」「地理基礎」「歴史基礎」の実験校になった3校の実践報告。

今回の新しい提言およびシンポでは、「歴史基礎」「地理基礎」それぞれ2単位必修、その他に選択科目として地理(複数の案あり)・日本史・世界史などを置く、「歴史基礎」「地理基礎」も大学入試に入れさせる方向で働きかける、従来のB科目に当たる各科目も入試を含めて改革をはかる、などの方向性が打ち出された。

地理がいかにも系統的で国際標準にも合ったような組み立てを打ち出したのは、個人的には地域研究や文化人類学などアメリカ的な学問(や理系)とのつきあいで慣れている所だが、歴史が必ずしもそうなっていないことが示されたのと対照的ではあった。ただ、地理で高校生のオリンピックや国際バカロレアのことが紹介されていたが、歴史でそういうことを考えるのがきわめて難しいのは、政治的な混乱が予想されることだけが理由ではない。史料を読むことが必須の歴史について(文学も同じだが)、はたして英語を共通語にして、内容的に英語圏の歴史に偏らずに高校生オリンピックや国際標準が成り立つかどうかが深刻な問題である。またこれは、たまたま今週の東洋史のゼミで実感したのだが、近代歴史学の「実証」と中国近世に成立し現代の中国やベトナムに影響している「考証学」の「実証」は、方法的に重なる部分がたくさんあるが、全く似て非なる部分もある。高校教育もそれをベースにしている面があり、狭義の政治性の問題にならなくても、同じ史料を読んでまったく対立する結論が出るおそれがある。地域研究をかじった者として、そこで一方的に近代歴史学の方法が正しいとは言えない。

これを含め、地理がある意味で既存のモジュールの組み合わせや使い方を変えるだけ新科目ができるのに対し、歴史はゼロから作らねばならない面が多いと、あらためて感じた次第である。

いずれにしても、高校教員に教え方の研修をどう保証するかが決定的だという発言もあった。全く正しい。

油井先生のもとで用語制限の検討(検討のもとにした、世界史・日本史の教科書に出ている用語のリストのすごさを見ていただきたい)などしたメンバーも集まった。昨日紹介した世界史研究所のHPに、それに関連するアンケートがまもなく出るので、ぜひ大勢の関係者にご協力いただきたい。
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漢文東洋史の末席に連なる者として

桃木先生
 半月ほど経ちましたが、6月14日のシンポジウムは、その傍聴だけでも東京に行く意味がありました。先生のこの記事を読んで、「考証学」の系譜も引いている漢文東洋史の独自の立ち位置を思いました。それは、全面的にヨーロッパ近代の学問方法にその存在の根拠を負っていないと言うことです。こうした理解でいいのか?という不安もありますが、何でも「横のモノを縦にする」のが文系の学問と断定するような方々には、「それだけではない」といいたくなるところでもあります。昨日の『朝日新聞』のオピニオン欄の「争論」で、「大学生は英語で学べ」の肯定側が、秋田県の国際教養大学の学長でしたが、この方の主張が「21世紀の学問=全て欧米起源」と言わんがばかりのものでした。全て英語による授業が売りの大学の学長の発言だとしても、それでは植民地的な学問の在り方がよいと言うのか?と反論したくなる意見でした。日本語での思索・発想から「優れて個性的なもの=普遍的なもの」をどれだけ生み出せるか、それを英語に限らず様々な言語で発信してこそ意味があるのでは?と思うところです。英語を使いこなせない人間の負け惜しみかも知れませんが、日本の大学をアメリカの大学の完全な亜流にして何の意味があるのか?と思います。
敬具
高橋 徹

Re: 漢文東洋史の末席に連なる者として

高橋先生
コメント有り難うございます。「なんでも英語で授業をしろ」という意見も、「唯一の正解をひたすら暗記する」人々から出て来ているものでしょう。
> 桃木先生
>  半月ほど経ちましたが、6月14日のシンポジウムは、その傍聴だけでも東京に行く意味がありました。先生のこの記事を読んで、「考証学」の系譜も引いている漢文東洋史の独自の立ち位置を思いました。それは、全面的にヨーロッパ近代の学問方法にその存在の根拠を負っていないと言うことです。こうした理解でいいのか?という不安もありますが、何でも「横のモノを縦にする」のが文系の学問と断定するような方々には、「それだけではない」といいたくなるところでもあります。昨日の『朝日新聞』のオピニオン欄の「争論」で、「大学生は英語で学べ」の肯定側が、秋田県の国際教養大学の学長でしたが、この方の主張が「21世紀の学問=全て欧米起源」と言わんがばかりのものでした。全て英語による授業が売りの大学の学長の発言だとしても、それでは植民地的な学問の在り方がよいと言うのか?と反論したくなる意見でした。日本語での思索・発想から「優れて個性的なもの=普遍的なもの」をどれだけ生み出せるか、それを英語に限らず様々な言語で発信してこそ意味があるのでは?と思うところです。英語を使いこなせない人間の負け惜しみかも知れませんが、日本の大学をアメリカの大学の完全な亜流にして何の意味があるのか?と思います。
> 敬具
> 高橋 徹
プロフィール

ダオ・チーラン

Author:ダオ・チーラン
ヒツジ年生まれで写真のニワトリに深い意味はない。横浜で生まれ育った関東人だが、大学入学後現在まで関西で暮らしている。
本業は歴史学者で、専門は中・近世のベトナム史、海域アジア史、歴史学の評論・解説など。
趣味はパ・リーグを中心としたスポーツ、鉄道ほか。
このブログの意見はすべて筆者個人のものであり、いかなる組織にも関係ありません。

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