政治的公正中立とは?

NHKが都知事選の争点になっていることを理由に、大学教授が原発の話をするのを拒否したそうだ。
意見が対立している政治問題にはふれないのが「公正中立」だろうか?
それは「混乱を避ける智慧」としてはありうるが、「公正中立」とイコールではないことは、マスコミ界や学校の教員などがよくよく心得ておかなければならない事柄である。

民主主義というのは、政治的意見の対立がある、すなわち唯一絶対の正解が存在しないことを前提にして、しかし必要な選択・決定はしようという制度である(もし絶対の正解があるなら、わざわざ投票や選挙をする必要はない)。
しかし人間は不完全な存在だから、十分な情報や討論抜きに単なる多数決をしても、ベターな選択は保証されないどころか、「衆愚政治」の暴走を避けるのは難しい。きびしく言えば、民主主義体制の恩恵にあづかろうとする人々に、十分な情報収集や討論にもとづく選択を「面倒くさい」とサボる権利はない。

つまり、公正中立というのは、特定の候補者や政党を支持ないし非難したらそれはまずいだろうが、争点にふれないことではない。絶対にない。

その点で、日本の選挙はまともな討論会もなし、選挙期間も短い、先進国では当たり前の戸別訪問が出来ないなど、ないないづくしで有権者が十分な情報を得たり討論する機会が少なすぎる。そのうえ衆院は小選挙区制ときては、ムードや利益誘導だけでものが決まってしまうのも当然で、先進国としてはとても恥ずかしい。
とすればマスコミは、判断材料としてのくわしい情報を提供する、そしてそれぞれの候補者の一方的主張だけではわからない食い違いや問題点などを討論する機会をたくさんつくる、そういう方向に向かわなければならない(政府が右といえば左と言えないような「公共」放送には不可能だろうが)。

こういう事態をおかしいと思わない大人ばかりにならないように、子供のころから「絶対の正解は存在しないなかで、どうやってベターな選択や決断をするか」の訓練をするのが、社会科を初めとする学校教育の重要な役割である。とすると、高校までの学校教育の全体が唯一の正解を覚えたり導き出す訓練に終始するのは、民主主義にとって深刻な脅威だということになる。

入試のせいでそれができないという意見は、基本的に正しい。入試を変えねばならない。
だがもし、現在のように沢山の「基礎知識」を暗記してからでないとそういう複雑な考えはできないとか、高校生までの発達段階では唯一の正解しか教えられないなどという大人(教員)が多いとすれば、大げさだがそれは、民主主義を否定する気かと詰め寄らねばならない。そうでないと、高卒以下は選挙権を制限しろといった話になりかねないと、皆さんおわかりだろうか(教養のない軍人政治家を締め出そうとしたという理由だが、タイではすでに、大卒以上しか国会に立候補できなくなっている)。
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ダオ・チーラン

Author:ダオ・チーラン
ヒツジ年生まれで写真のニワトリに深い意味はない。横浜で生まれ育った関東人だが、大学入学後現在まで関西で暮らしている。
本業は歴史学者で、専門は中・近世のベトナム史、海域アジア史、歴史学の評論・解説など。
趣味はパ・リーグを中心としたスポーツ、鉄道ほか。
このブログの意見はすべて筆者個人のものであり、いかなる組織にも関係ありません。

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