近代になると翻訳の水準が上がる?

先週土曜日の歴教研例会は、院生報告の2本立て。
今年度は「言語と文字」という共通テーマがあり、先月は「国語の形成」、今回は「翻訳」と「地名の変化」がテーマだった。

こちらの指導不足を棚に上げて発表の不十分な点をいろいろツッコンでしまい、院生諸君には申し訳なかったのだが、ひとつ気になった点があった。
それは、「翻訳」で日米開戦直前の、アメリカ側による日本の秘密電報解読のネタを取り上げた発表に、「前近代に比べて翻訳水準が格段に上昇した近代」でも誤訳が発生する、という前置きがついていた点である。

「前近代に比べて翻訳水準が格段に上昇した近代」というのは、前提がおかしいだろう。
前近代について、浦賀でペリー艦隊の相手をして使い物にならなかった通訳などのイメージがあるのかもしれないが、こんなに単純にはとらえられない。漢訳仏典の翻訳者、大航海時代に各国語のローマ字化と辞書作りをした宣教師などの例から考えるべきだ。

たぶん言いたかったのは、近代にはみんなが良質な翻訳にふれる条件ができたということだろう。たしかに辞書や教科書ができたり留学が可能になったりして、翻訳・通訳技術の水準の一般的な向上に有利な条件はできている。また印刷技術の普及等によって、翻訳の恩恵にあずかれる人の数も増える。だがそれを「翻訳水準の向上」という日本語で言い表していいだろうか。

前近代には通訳・翻訳の対象となる情報量は、一般に近代より少なかったろう。近代はそれが爆発的に増える。だが、大量生産の工業生産でも、需要があまりに急激に増えると質の悪い製品が流通してしまうことがある。まして翻訳は機械でなく人間がするものだ(今でも電子翻訳が可能なのは一部の分野だけである)。たくさんの人間が参加すればするほど、翻訳者全員が同じように「水準向上」をすることは難しくなる。翻訳を利用する側も、前近代なら少数のエリートだったろうが近代には大衆化するため、受け手側の知的水準の低下も起こりうる(つまり不良品でもチェックができない)。これらの要因があるから、現在でも欠陥翻訳がまかり通るのだ。
*翻訳の製品は工業製品とは違う。しいてたとえれば農産物には似ているかもしれない。農産物も近代に生産量は激増したが、質が本当に格段に向上したといえるだろうか(均質性や栄養分の含有量なら向上した品種が多いが、味は本当に向上しているだろうか)。

しかも、外交文書の翻訳などというのは人文系の論文の翻訳と同じで、大量生産の世界でなく高度な職人技(ほとんど芸術)を要求される世界である。たとえば寿司職人の世界で、江戸時代と現代を比べて一般的な技術水準が「格段に上昇している」と言えるだろうか? 演劇の一般的な演技水準が「格段に上昇している」と言えるだろうか?

質疑で「一般的に近代に翻訳水準が向上しているというのはおかしい」というツッコミに対して、近代には「辞書なども整備されている」という発表者側の発言があったが、これは完全に墓穴を掘った。だったらどうして、日本人の英文和訳はいつまでたっても低レベルなものが多いのだろう。良い辞書があれが良い翻訳ができるなどというのは、素人の甘い考えである。
*まして、現在のベトナム語辞書を見ればわかるように、どの言語でも良い辞書が揃うなどという状態にはなかなかならない。また外語大を見ればわかるように、「マイナー言語」には優秀な通訳・翻訳者が出にくい。第二次大戦前のアメリカで、日本語はどこまで「メジャー言語」だったのだろうか。

で、良い辞書があったとする。しかし、辞書にはひとつの単語に複数の意味が出ているのが普通である。そのとき適切な訳語を選ぶことは、相当親切な辞書でも辞書側の説明だけに頼ってできるとは限らない。利用者側の言語的素養、扱われているテーマに関する高度な専門知識、広い教養や人生経験などが総合されてはじめて、適切な選択が可能になる。たとえば東南アジアに関する英文で、現地経験なしにはいくら英語の達人でも訳せない文章は珍しくない。つまり、狭義の語学の才能と訓練だけでは足りないのだ。
これは、なんでもかんでも英会話の時間を増やせという学校教育への要求が「英語力全体の向上」にとって的外れであるという問題にもつながることなので、当該院生報告者には気の毒だが、あえて書かせてもらった。






関連記事
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

ダオ・チーラン

Author:ダオ・チーラン
ヒツジ年生まれで写真のニワトリに深い意味はない。横浜で生まれ育った関東人だが、大学入学後現在まで関西で暮らしている。
本業は歴史学者で、専門は中・近世のベトナム史、海域アジア史、歴史学の評論・解説など。
趣味はパ・リーグを中心としたスポーツ、鉄道ほか。
このブログの意見はすべて筆者個人のものであり、いかなる組織にも関係ありません。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
アクセス・カウンター
あなたは
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR