新しい歴史教育ができる高校・大学教員の養成法

土曜日の歴史教育研究会は私と堤一昭先生が報告(レジュメは後日、大阪大学歴史教育研究会HPにPDFファイルで掲載されます)。
堤先生の共生文明論コース(大阪外大との統合時に文学研究科に作った修士課程だけの「文化動態論」専攻のなかの一コース。「歴史教育論」などの授業を開設している)の演習の紹介はとても面白かった。30年前の世界史教科書(山川詳説世界史)と現在の主要教科書の中国史記述の差異を手分けして調べさせたものだが、30年前の教科書は完璧な国民国家史観と中華史観。こういう歴史像に対してなら、中央ユーラシア史研究者が口を極めて非難するのも当然か。

関連して、「桃木はいつも、『新しい内容に戸惑うのは先生であって生徒は初めて習うのだから、新しい内容を淡々と教えればよい』というが、生徒が習ったことを親が『なんだそれは、おかしい』と言うこともあるから、生徒にも3、0年前と比較して学問が進歩した結果、現在の内容の方が正しいのだということを教えねばならない」という指摘を、常連のS先生からいただいた。たしかにそういう場合はあるだろう。ただ、より広く考えればこれは大人の考え方の方を変えさせる努力が必要だろう(CSCDはまさにそういうことを考える場)。

私の報告は毎度の大ボラなのでみんな呆然として、質疑が盛り上がらなかったが、学術会議史学委員会の提言のような高校での「歴史基礎」の創設、暗記ばかりでない歴史教育ができるような高校教員養成、詰め込みにならないような分野ごとの学会によるスタンダードの提示、といった改革を実現しようと思ったら、高校・大学双方の教員の養成法を大幅に変えなければいけない、という観点から、大学でどんな授業を受けさせるべきかについて話したものである。

最初に「自分が受けた世界史Bの授業と同じようにしか教えられない高校教員」「自分の専門性から踏み出した授業ができない大学教員」が圧倒的多数を占める現状とその背景を指摘したのち、阪大での「市民のための世界史」や史学概論、歴史教育研究会(大学院演習の扱い)などの試みとその問題点を紹介し、最後に「受けさせるべき授業」について--阪大でも一挙にすべては実現できないが--提言をした。

提言の第一は、教養課程「市民のための世界史」のような世界史を骨格だけ教える科目を受講させることである。これは元来、高校世界史をまともに履修していない(「Bの半分」も含む)学生用の授業だが、教員・研究者志望の学生が受講すれば、「覚えただけ」の知識を「つなぐ・くらべる」こと、それらに意味をあたえることができる。
第二が今回の本題の、新しい史学概論の授業を受けさせることである。それは古典的な「西洋史の先生が西洋の歴史観と西洋の実例だけを教える」ものではなく、日本を含んだ非西洋世界を十分含んだうえで、歴史学の意義と対象・方法、それらの変遷と現状、他の学問との関係、歴史学の組織や学者の活動法の特徴などを教えなければならない。

この2科目を両方履修してはじめて、世界史と歴史学の全体像が理解でき、歴史好きの高校生や史学系専攻の学生以外の対象(歴史学の大づかみな状況や特徴を知る必要があるが、特殊講義やゼミは時間がないし敷居が高すぎるという他分野の院生や研究者も含む)に向かっても、基礎科目・概論を含むすぐれた授業をすることができるようになる、というのが私の意見である。ということは、研究者養成大学はもちろん、地歴科高校教員をある程度まとまって養成するような大学では、これらの2科目の開講は必須である、極端な言い方をすれば大学ごとの特色はそれ以外の特殊講義やゼミで出すべきだ、ということになる。また、必須2科目が教えられるような教員の採用・研修が必要になる。

履修法の面で合わせて指摘したのは、この2科目を、学部1/2回生など「専門の入口」で受けさせるだけではあまり効果的ではないという点である。今回問題にしている高校・大学教員の志望者は、「市民のための世界史」を大学1回生で履修する必要はないだろう。しかし教員になる直前に(またはなってから)受けたら、個別の専門研究を要約して大きな像にする方法について、大きな示唆を得られるはずである。また史学概論は現行のように学部2回生で受けて有益なのだが、惜しむらくはその後の「専門教育」を受けるうちに、多くの学生が自分の専門のことしか考えられなくなってしまう。だから、たとえば大学院生・ポスドクには、「2回目」を受けさせる仕組みが望ましい。もちろんまったく同じ内容を聞かせるのは愚劣だから、今度は演習で発表させる形式とか、学部生に教えさせる形式がいいだろう。

これを空論と笑うなかれ。
たとえば他大学も含め、東洋史の学部生・院生のうち、他分野の学生・院生に向かって(というか、同じ研究室の仲間に対しても)、中華帝国の構造の特徴を簡潔に語れる者には滅多にお目にかからない。知識がないのではないが、具体的な場でなにをどういうレベルでしゃべっていいかがまったく解っていないからだ(英会話ができない理由と同じ)。それができない学生は、咄嗟に頭が働かないという問題ではなく、時間をかけて論文を書く場合でも、そこで自分の研究の位置づけをはっきり書くことができずに、「とにかくこれこれの研究がないから自分がやる」のでなければ「○○先生のお手本にならって研究する」ぐらいで終わってしまう。では、かわりに漢文がばりばり読めるか。中国語会話はペラペラか。そんなことはない。私は、そういう状態は「税金の無駄遣い」と言われても仕方がないと考える(自分の学生時代を棚に上げて、ではあるが)。どの専攻も同じならまだしも、歴史人類学や歴史社会学、国際関係論の学生なら、中華帝国の一般的特徴ぐらいは、具体的な研究の前提としてさらっと説明できるようになるものだ。

阪大東洋史の合同演習などは別だが(今回も、そこで「2回生向けの入門講義」として院生の伊藤君が4月に教えた「東洋史学史」の紹介をした)、普通のゼミと特殊講義をいくらやっても、この状態は変えられないだろう。それでは「西洋中心史観」の打破もできなければ、文化人類学や社会学、国際関係学の学生・院生と、中国に関するビジネスや国際交流、研究などのポスト(就職口)を争うことも難しい。私はそういう状態を変えたい。

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No title

大変勉強になりました。ところで、昨今、中々ポストにつけない院生(30台半ばにつければいいというレベル)状況が続いていますが、その一方で、教授ばかりがいる高齢化研究室がやたらと増えてる現状はどう考えていますか?博士号を取得していないご老人が博士号審査をしてみたり、研究成果を世に問う社会的な貢献(先生は沢山おやりになられていますが、他の多くの方はどうか?)をしていない人間が定年までまるで養老院と勘違いしているかのように大学に居座り続ける状況こそ改善すべきではないかと思うのですがいかがでしょうか。

大学教員と社会貢献

コメントありがとうございます。
・まず押さえるべきは日本の「先進国にあるまじき学術・教育予算の貧困」です(OECD加盟国中、GDP比での教育支出は最低というのは有名な話)。若手の職がない悲惨な事態を、主に年寄りの研究者のせいであるとする議論は、よくある「いがみ合いの構図」の陥りかねないので賛成できません。
・そのうえで、(自分のことを棚に上げて)「困った先生」がいるのは否定できません。私は「社会貢献」と「教育」だけが大学教員の生きる道だとは思いません。しかし「研究一筋」で行くことが許されるのは「世界レベル」の人間だけだというのは、現在では正しいでしょう。現在は重要性が低下した「かつてのメジャー分野」で「国体レベル」の研究を続けている先生には、教育や社会貢献、国際発信(自分のではなくても日本の学問を海外に伝える)や学内行政などで頑張ってもらわねばなりません。
プロフィール

ダオ・チーラン

Author:ダオ・チーラン
ヒツジ年生まれで写真のニワトリに深い意味はない。横浜で生まれ育った関東人だが、大学入学後現在まで関西で暮らしている。
本業は歴史学者で、専門は中・近世のベトナム史、海域アジア史、歴史学の評論・解説など。
趣味はパ・リーグを中心としたスポーツ、鉄道ほか。
このブログの意見はすべて筆者個人のものであり、いかなる組織にも関係ありません。

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