チャラチャラした流行に飛びつく研究者?

学界評論や歴史教育で、「現状を危機ととらえる」「全体を見て主要な下位領域に関する説明や論評を並べる」などをおこなうと、「チャラチャラした流行に飛びつくヤツだ」と言われることがある。特に、片やグローバルヒストリー、片や言語論的転回、メタヒストリーにナラティブといった紹介をすると、そういう反応がかえってくるのかもしれない。私が独断と偏見のスポークスマンをしてるせいで、阪大史学までそう思われている場合があるやにも聞く。

その浅見に驚く。

私は海域史の旗を振ったが、「なんでも海域」「陸や農民の歴史は無視」といった風潮には大反対である。グローバルヒストリーに賛同しているが、それが「地域を無視する」ものになるのは許せない。それらの視点から私は、2000年代に入ってからわざわざ土地制度史の論文を何本も書いている。マルクス・レーニン主義を指導原理とするベトナムの学界でも、もはやほとんどやる人がいなくなったテーマである。

こういう研究者をつかまえて「流行に飛びつく」とは、いったい何を考えているんだろう。
必要な複数の分野に手を出すことと流行に飛びつくことの区別もつかないのだろうか?


阪大史学系に対しても、ポストモダン系の内容で協力してくれという申し入れがけっこう来るが、共同研究などができる専門家はほとんどいない(日本学、文学や芸術学など他の専門分野にはいるが)。

私がポストモダンの紹介をするのは、それに全面賛成するからではない。従来の歴史学や歴史教育に対して、それらの側から無視し得ない(方法論的にも社会的にも一定の意味を持つ)深刻な批判が提起されているからである。
つまり、それらに必要な対処をしなければ、歴史学や歴史教育の社会的意義を主張することができなくなるからである。
それは、歴史学や歴史教育を豊かにする道でもあるはずだ。


日本の歴史学界や歴史教育界が、「敵については研究や学習を禁止する」という「伝統」を引き継いでいるなどとは考えたくない。


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ダオ・チーラン

Author:ダオ・チーラン
ヒツジ年生まれで写真のニワトリに深い意味はない。横浜で生まれ育った関東人だが、大学入学後現在まで関西で暮らしている。
本業は歴史学者で、専門は中・近世のベトナム史、海域アジア史、歴史学の評論・解説など。
趣味はパ・リーグを中心としたスポーツ、鉄道ほか。
このブログの意見はすべて筆者個人のものであり、いかなる組織にも関係ありません。

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